一面の麦畑が海原のように風に靡く。枯れた葉が擦れあう音が、ザワザワと波に合わせてさざめいた。
アゼルマが金色の絨毯に飛び込めば、自身の背丈を優に越え宛ら林に潜り込んだようだった。
「今年は実入がいい。こりゃあニケ様に感謝せにゃな」
父が嬉しそうにそう言った。近所の人達も皆父の言葉に頷き嬉しそうに笑った。
母は毎日豊穣の神ニケにお祈りをしていた。今朝は母も大喜びで脱穀の準備をしていた。
麦の林に潜りながら、アゼルマは折れて地に落ちていた小さな穂を拾い上げた。
その穂を弓に見立て、天高く伸びる畑の穂達にパシパシと叩きつける。麦がしなりサラサラと音を立てる。アゼルマは街で見た楽団のバイオリン弾きを思い出していた。
くるくると回りながら指揮者の様に穂を振る。麦達が楽団のように合奏を奏でる。時折覚えている歌を口ずさむ。小鳥達の合唱も見事なものだ。
アゼルマの指揮はクライマックスを迎え、終いに麦畑を突き抜けて両手を天に掲げた。麦畑のざわめきが拍手喝采のようにアゼルマに降り注ぐ。
だが余韻に浸る間も無く、小さな拍手がアゼルマに向けられた。驚き見やれば、眼鏡をかけた細身の—軍人が立っていた。
「素晴らしい。素敵な演奏だったね」
兵隊さんだ、アゼルマは自分の行いを見られていたことよりも、見慣れないその服装に萎縮し小さくお辞儀をした。
頬が燃えるように熱い。駆け抜けたせいか耳まで熱くなっていた。
「カーテシーも見事だ。母君から習ったのかな?」
「はい、ムシュー」
「それは結構。…ところで、失礼。私以外にこうした服を着た人を見かけなかったかな?」
幾度か首を振れば、その軍人は困った様に笑った。
「そう。ありがとう、プティ」
彼はそう言うと、畦道を道なりに進み出した。
遠くなる背に、アゼルマは改めて恭しくお辞儀する。麦畑を撫ぜる秋風は再び拍手を彼女へ送る。
「…ここにおりましたか!ウォーカー団長」
彼が誰かに呼びかける声を乗せて。
≪秋風≫
「ご機嫌よう」
パシュ、と小さな音をたてて放たれた弾丸が男の眉間を貫く。
真っ白な壁紙が花弁が散らされたように真っ赤に染まる。サイレンサーから燻る硝煙をわざとらしくフッと吹く。
夜景を展望できる窓にはパーティドレスを身に纏った自分が映る。その姿は宛ら舞台役者のようだった。
今回は少し手こずった。だが部屋まで誘い込めればこちらのもの。あとは鼻の下を伸ばすそのふざけた面に、素敵なプレゼントを送れば任務完了。
「ええ、終わったわ」
ピアスを模した通信機にそう告げれば、彼女は煙草に慣れた手つきで火をつけた。
吐き出した紫煙が部屋と肺に満ちていく。そこまでのルーティンをこなして、彼女の胸はようやく満たされる。
銃口を向けた相手の恐怖、苦悶の表情。それが見たくてあえてこの役を買って出ている。
その表情の移ろいを見ると”生”を感じる。
—嗚呼、堪らない。
彼女は剥き出された自分の肩を抱き恍惚の表情で身震いする。
「…これだからやめられないのよ」
≪スリル/また会いましょう≫
「逃げないもんですね、存外」
天窓が一つ設けられた部屋で少女が蹲っている。歩けない様に板状の足枷がつけられている。
背に生えた翼が”それ”が普通では無いと物語っていた。
「あんな立派なもんつけといて、窓から逃げようと思わないもんですかね」
そう不思議がる監視員に、画面越しに問診していた男は答えた。
「いいや。アレは…”アルバトロス”と同じさ」
「アルバトロス?…ってなんですか?」
問診票にチェックを入れながら彼は質問に答えた。
「アホウドリのことだ」
「ぷっ……あはは!ドクター天馬、結構毒舌ですね!まぁアホウってのも頷けますね。逃げ道があるってのに、ぼんやり空を眺めて終わりだなんて」
その言葉を聞きながら、天馬は苦い顔をした。
—馬鹿者め、そういう意味じゃない。
アルバトロスは滑走して助走を付けなければ飛び立てない。彼女も同じだ。だから走れないよう枷をつけているのだ。
我々”人”がそうしているのだ。だから彼女は諦めている。
(もし、私が創造主ならば、翼だけで飛び立てるように設計しただろう)
ともすればこんな人型にすらしなかっただろう。神は何を血迷って、人の背に翼を生やそうと思ったのか。
「……哀れだ」
そう呟き天馬は問診を終え、その場を後にした。
人の姿をしていなければ、親しみから興味を持たれ閉じ込められることも無かったろうに。人が”アホウ”でなければ、こんな研究対象にすらならなかっただろうに。
廊下の天窓から降り注ぐ光を避けながら、天馬は臍を噛んだ。
≪飛べない翼≫
何か、大切なことを忘れている気がする。とても、とても大切なこと。
決して忘れまいと、心の奥底に仕舞った記憶。
なのに…今はとても朧げだ。
私は一体何を覚えておこうとしたのだろう?この足が向かう行先?この手に取る何か?それとも—。
……駄目だ、思い出せない。
『これだけは忘れてはならない』と、心に言い聞かせた筈だというのに。
目紛しく過ぎゆく時間の中で、私は大切な”何か”の記憶を忘れてしまった。
諸行無常だ。…いや、盛者必衰の方だっけ。どっちでもいい。
とにかく私は何か大切なことを忘れている。あんなに忘れるなよと自分に言い聞かせておきながら。
こう、喉元までは出かかっているんだ。頭にもぼんやりと『これは忘れちゃダメ』と記憶した何かが—…。
私はそう思いながら腰掛ける。
その瞬間私の頭に電流が走る。
パッと照らされたその単語が脳裏を過る。
「トイレットペーパー…!!」
空になったペーパーホルダーが悲しく乾いた音を立てる。深夜1時。コンビニまで徒歩5分強。
また明日にするか、でこうなった。明日こそは決して忘れまい。
私は苦い顔でそう誓った。
≪脳裏≫
「ぅ、えっくし!!!」
喫煙室に響き渡るくしゃみに、その場にいた連中は顔を顰める。
「汚ね、うつすなよお前」
鼻水を啜りながら、俺は設楽に忌々しく告げる。
「移んねぇよ。花粉は」
この時期の憎いあん畜生がやってきた。由々しき事態だ。
「えっ、豊田お前花粉症だっけ?いつから?」
「多分一昨年くらい…病院行ったのは去年」
「うわ、課長俺もっス。杉?」
頷くと根田が哀れみの視線を向ける。顔が「うわぁ」と言ったままで固まっている。
「俺、稲っス」
「稲もしんどいって聞くな…」
ポケットティッシュを取り出し鼻をかむ。残り数枚。心許ない。
「俺に金さえありゃな…」
「新薬でも作るのか?」
我関せずな設楽がフウと煙を吐き出す。
「いや。『花粉撲滅党』って政党立ち上げて日本中の杉林刈り取る」
「そっちかい。出馬って幾らだっけ」
「300」
案外するな、と二本目に火をつけながら設楽が嘲笑する。
「流石に世の林業従事者が黙ってねえだろ」
電子タバコを指揮棒のように振りながら俺は答えた。
「でも絶対過半数以上は議席取れるね」
「杉切り終わったら解散する政党なんてあるか」
俺たちのやり取りを聞き、根田が閃いたように言う。
「あ!そしたら稲刈ったらいいんですよ」
「稲は植えたら刈るまでがセットだろうが」
「…確かに」
「稲ってそのイネじゃないだろ、確か」
スマホで調べ出す俺に、設楽が呆れ声で言う。
「今の会話みたいなの、なんて言うか知ってるか」
「”一攫千金”?」
「”取らぬ狸の皮算用”」
スマホから視線を外さずに言う俺たちに、溜息混じりに設楽が答える。
「……”机上の空論”」
≪意味がないこと≫