足音
歩けるようになったばかりのころ、あなたはいつも私の後をついてきた。
トイレに行くのにも、台所へ行くのにも、いつもいつもトコトコとついてきた。
もちろん、どこのドアもぜーんぶ開けっぱなし。
あなたがどこでもトコトコ行けるように、ドアは閉めないようにしていた。
ある日、あなたがすやすやお昼寝してくれたので
「お、今ならトイレに行けるかも」
と私はそうっと起き出した。
いつもなら、開けっぱなしで入るトイレ。
音がしないようにそっと閉じる。
やっぱり、トイレのドアは閉まってる方が落ち着くなぁ。あれ?
ちっちゃい音が聞こえてくるよ。
トコトコ歩く足音と、半分泣きながら私を呼ぶ声。
「ここだよー、トイレだよー」
と叫ぶと、トコトコがトットッと走り出して止まった。
「わーん、ちゃーん(お母さん)」
ドアの向こうで大泣きしているあなた。
焦って用を済ませドアを開ける。
大泣きのあなたを抱き上げて、またお昼寝の布団に一緒に横になる。
しばらくヒックヒックとしていたけれど、ぎゅーっとしたらまた眠ってしまった。
まだまだトイレはオープンだなと、小さな背中をトントンする。
それはたった10年前のこと。
今あなたの部屋はドアがしっかり閉まっている。
終わらない夏
あの子が落とした麦わら帽子は、ころんころんと転がって、せいたかのっぽの夏の草に隠れた。
探しても探しても小さなあの子には見つけられない。
あの帽子は、おばあちゃんにおねだりして買ってもらった大事な大事な帽子なのに。
「どこにあるの?」
あの子は泣きながら探したけれど、帽子は草陰で息をひそめている。
「また探しにこよう。草刈りが終わって秋になれば
見つかるかもしれないよ」
ヒグラシが鳴きはじめ、山の影が黒く染まっていく。
お父さんに手を引かれて、あの子は帰っていった。
それから秋が来て、冬が来ても帽子は息をひそめたまま。
あの子は何度も探しにきたけど、見つけることはできなかった。
あの子にとって、帽子が見つかるまでは終わらない夏。
季節はめぐって7月のころ、グイーングイーンと草刈りが始まった。
ころんと帽子が転がってくる。
草刈りのおじさんは、小さな帽子をそっとかかしにひっかけた。
私はここにいるよ。
あの子の夏は終わらないまま、また始まる。
遠くの空へ
10年後の空は、今日とそんなに変わらずにあるだろう。
10年後の自分はどうなっているだろうか
子供たちは大人になり、夏休みのお昼ご飯には悩まなくなっているだろう
自分の時間がないことに苛立ったりするどころか、時間がありすぎて困っているかもしれない
静かな家で寂しいと思っているのかもしれない
掃除も洗濯も当たり前のことは毎日こなし、仕事もしているだろう
歌は続けているだろうか
周りにはどんな人がいるだろうか
笑っているだろうか
苦しんでいるだろうか
遠くの空へ そこにいる私へ
あなたが笑っていられるよう、今の私は少し頑張らないといけないね。
あなたが笑っているということは、今の私の積み重ねが間違っていないということだから。
遠くの空へ それを見上げる私が幸せであるように。
今の私は、毎日を生き切ろう。
!マークじゃ足りない感情
かき氷を食べた時のキーン
突然背中にカナブンがとまった時
ドアを開けたらそこに人が立ってた時
ラッシュ時の新宿駅に降り立った時
リングの貞子の顔が画面アップになった時
感情ではないかもしれないが、!さえも出てこない瞬間
君が見た景色
朝の散歩の途中、車にひかれたトカゲがいた。
思わず手を合わせる。
君は走るのがとても早いのに、間に合わなかったんだね。
身体の向きから、草むらの方に走っていたのかな。
その先の光景は君の目にはどう映っていたのだろう。
虫をおいかけていた?
たまたま通りかかった?
朝の日向ぼっこをしていた?
君が見ていた景色がどんなものだったのか、私にはわからない。
でも、最後に見た景色が車のタイヤじゃなければいいな。
真夏の青空の下、勝手なお願いと祈りをつぶやいた。