羅針盤というのは、常に北を指している。心の羅針盤とは目指す方向を定めてそれに向かって努力する、そういう意味だ…と昔、じろ兄に言われた。
俺は五人兄弟の末っ子だ。名前は舞賀五郎で五番目に生まれたから、という結構安直な…良く言えば分かりやすい名前だと思う。
俺は今年で中三だから受験生だ。俺の双子の兄の四郎がいるから、心強い。三男の三郎は、今、高校一年生で去年猛勉強していたのを見ていた。三郎の頭の良さはギリギリ素因数分解ができる程度だったため、本当に危なかった。一男と二男はもう成人しているが、お前たちが大人になるまでは面倒を見てやる!と燃えていたため、口出しはしなかった。
一男の一郎は勉強は三郎といい勝負だが、芸術的感性がずば抜けていた。本人はさほど気にしてないのだが、コンクールでは賞を総なめし、全国では最優秀を取るほどの秀才だった。現在は芸術家として名を馳せている。
二男はとても勉強ができる兄だった。高校、大学は超名門校へ進学し、現在は今をときめくニュースキャスターとして我が家を支えている。勉強ができる上、顔もいいので学生のときはスーパースターだった(一郎談)と知って、小さい頃はとても憧れた。…今はブラコン過ぎて少し引いているのだが。
「…ん、くん、五郎くん!」
兄弟たちのことを考えていたら四郎から呼ばれた声に気づかなかった。
「あ、しろう…」
「大丈夫ですか?五郎くん。何だか上の空にいましたが」
「あぁ、ちょっと考えごとしてただけ」
「ふーん。そうですか。それなら志望校のことを考えてくださいよ。あなたが決まらないの、じろーさん心配してましたよ」
四郎はちょっと言葉は冷たいが心配してくれてるのは知っている。じろ兄にも心配かけてたんだ…幼いときはなんだかんだ勉強とかを見てくれていた。俺の志望校が決まらないのは、じろ兄と同じ高校に行きたいからだ。それなら決まっているだろうと四郎に言われたが、俺が心配しているのは本当に合格できるか不安だからだ。勉強は頑張っているが、合格できるまでの学力がない。俺は日和っている。不安で不安で仕方がない。できればじろ兄に勉強を教えてもらいたい…だけど、今はニュースキャスターで忙しいだろう。そんな簡単に言える訳がない。明日、志望校の紙を提出する日だ。もう時間がない。
(俺が書くのは――)
「もうそろそろ、三者面談ですね」
夕食の席上、ふと四郎が呟く。
「えー!そうなんだ!俺、俺行きたーい!!」
ハイテンションにさぶ兄が言う。
「ダメだ、三郎はまだ高校生だろ?俺が四郎の、二郎くんが五郎の行くからな」
母さんは、俺が二歳のときに亡くなった。記憶は全然なく、写真でしか見たことがないが優しそうな顔をしていた。父さんは海外赴任で普段は家にいない。だから、いつも兄たちが面談や授業参観に来ている。
「五郎の面談、楽しみだな〜」
「あ、はは…」
この時は、苦笑いしかできなかった。
「五郎が、就職…!?」
三者面談当日、じろ兄が声を荒げた。
「お、おい、五郎、お前高校行かないのか…!?」
じろ兄が焦って俺に言ってくる。まあ無理もないだろう。就職なんて選択肢が元々ない人だから。
「うん。一生懸命考えて、俺が出した答えはこれだよ」
じろ兄は眉間に皺を寄せ、少し考えて先生の方を向いた。
「あの…先生。大変申し訳ないのですが、今日は一旦帰って五郎と進路について話したいのでまた後日でもよろしいでしょうか」
「え、じ、じろ兄…」
口を開いたかと思ったら、とんでもないことを言った。俺の何が悪いんだよ…間違ってるとでも言いたいのか。多分先生も反論してくれるよな。
「きっとそれが良いと思います。舞賀くん、よくお兄さんとお話しなさい」
ええー…なんだよ、揃いも揃って。じろ兄はありがとうございます、とニコニコした表情で先生と話を終わらせた。
「行くぞ、五郎」
鋭い目で見られて、一瞬ビクッとなる。先ほどまでのあの笑顔はどこへやら。複雑な感情のまま学校を後にした。
家に帰ってくると、誰もいなかった。さぶ兄は多分部活で、いち兄と四郎はまだ面談しているんだろう。なんて考えながら、リビングの椅子にじろ兄と向かい合う形で座った。
「なあ、五郎…」
これから何が言われるか分かっていた。じろ兄は高校に行かせたいんだ。
「俺、さ。高校…行きたいよ」
と本音を口に出す。
「なら、行けば…」
「無理なんだよ!!」
じろ兄が話している途中で口を挟み、声を荒げる。
「お、俺、じろ兄みたいに頭も良くないし、我儘ばっか言うし体も強くない…」
自然と涙が溢れる。
「高校に行きたいのに落ちるのが怖いんだ…弱いんだよ俺…」
静かな部屋で、俺の鼻水をすする音が響く。じろ兄からなんて言われるか分からない…怖くて顔が見られない。
「五郎、お前…」
心臓がドキドキしている。やばい、怒られる――
と思ったら頬に手が添えられ、真剣な顔で俺を見つめていた。
「五郎が一番よく頑張ってるじゃないか!」
「え?」
「どんなに学校が大変でも、誰にも頼らずに、毎日寝る直前まで勉強してるじゃないか!」
「み、見てたの…」
「もちろんだよ!こんなにコツコツ頑張ってるのに、見てないはずないだろ!」
俺が頑張っている姿を尊敬している人に認められて、自然と嬉しくなる。
「弱くなんてない。目標に向かって努力する五郎はかっこいいんだ」
体中に強い衝撃が走った。なんでこんなにいっぱい褒めてくれるんだよ…今まで頑張ってきたことが認められたように感じて、涙がボロボロとこぼれ落ちる。
「ありがとう。じろ兄」
そう言うと、じろ兄の頬が緩み、笑みがこぼれた。
その後、じろ兄に勉強を教えてくれ、と頼んだらなんだそんなことかと笑って丁寧に優しく教えてくれた。四郎によかったですねなんて言われ、少し恥ずかしくなった。
そして、4月
晴れて俺はじろ兄の通っていた高校に入学した。合格が分かった瞬間、みんな泣いて喜んでくれた。
「よかったな五郎」
じろ兄から言われた言葉が、深く心に響く。
「うん。じろ兄のおかげ。ありがとう」
目標に向かって努力する…心の羅針盤という言葉。それを教えてくれたじろ兄は俺の一番大好きで尊敬する人。この言葉は絶対忘れない。そう誓った。
っはぁ、はぁ
待ち合わせ場所まで、あともうちょっと。走ってきたせいで息が上がっている。午後の照りつける日差しは中々暑い。少し遅れそうかも。結構頑張って走ったけど、俺、体力こんなに落ちてたっけ?でも、絶対遅れちゃだめだ。なんてったって、今日は恋人の翔くんとで、でっ、デートだからだ!!
「ごめん翔くん!待った?」
「ふふ、大丈夫だよ。今来たばっかりだから」
カップルの典型的な会話っぽくなって少し恥ずかしいけど、翔くんは俺の好きなイケメンスマイルで微笑んでくれた。
「智くん、凄い息上がってるよ?大丈夫?」
「っ、あ、はは、ちょっとね、寝坊しちゃって」
そう言われて、俺の体力の無さに少し悲しくなる。
「あはは、そっか。じゃあ、早速行こっか」
ニコッと笑顔を向けられる。ドキドキと心臓の鼓動が早くなってしまう。
(こんなにいちいち反応してたら俺の心臓持たないぞ…)
ドギマギしながら翔くんの手をきゅっと握り、俺たちは歩き出した。
十分ぐらい歩いて、着いた場所は。
「じゃーん!水族館でーす」
「おお!すげぇ!俺、ここ行ってみたかったんだよ!」
この前雑誌で見て、翔くんにここ行ってみたいなって言ったの、覚えてくれてたんだ…。
「よかった。智くん、魚好きだもんね」
「うん!」
そして、俺たちは色んな魚を見た。巨大なジンベエザメやイルカ、ペンギンもいてびっくりした。
どんどん進んでいくと、クラゲが沢山いるコーナーになった。ふわふわと自由気ままに泳いでいる姿をずっと見ていたら、隣にいた翔くんがふとこっちを見た。見た、といってももう五分ぐらいずっと見られているような…。しびれを切らして俺は翔くんと向かい合った。
「ちょっと翔くん。さっきからなんで俺の方をずっと見てるのさ。魚を見ろよ、魚を」
「だって…魚よりも貴方の方が興味あるもの」
「はっ!?」
おま、お前はなんでそんな恥ずかしいセリフが言えるんだ!?どう考えても魚の方が面白いだろ…。
「智くんが魚を見てるときの目が、とても輝いてるんだ」
「っ、え?」
「興味深そうに魚を見てる貴方の目とか、仕草とか全てがキラキラして見えるんだ」
ぶわっと顔が赤くなる。そんな目で見てたんだ、俺のこと。嬉しいような恥ずかしいような気持ちがぐるぐる入り混じる。
「ふふ、顔が赤いよ?智くん。照れちゃうなんて、かーわいー」
「う、うるせぇっ!」
ニヤニヤしながらそんなこと言って…なんなんだよ翔くん…恥ずかしい。俺はぷいっとそっぽを向く。まだ笑い声が聞こえるなあ
「んもう、次、行くよ!」
強引に翔くんの手を引いて次のコーナーへと向かった。
「智くん、水族館楽しかったね」
翔くんと回っていたら時間なんてすぐ忘れてもう日が暮れそうだった。向かい合って俺も返事をする。
「うん。俺、今日めっちゃ楽しかった」
「よかった。智くんが嬉しそうで俺も嬉しいよ」
後ろから太陽が翔くんを照らして、逆光になっている。…顔があまり見えない。だから、視界いっぱいに翔くんを写せるようにぐっと近づく。
「ちょ、え、智くん?」
ほら、やっと見えた。
「んふふ、しょおくんの笑顔が見れて俺も嬉しい」
その瞬間、翔くんの顔がかあっと真っ赤になる。さっきの仕返しだ。ずっと口をパクパクしてて面白い。さっき翔くんが笑ってたのが少し分かった気がした。
歩き出して、今日待ち合わせした場所まで戻ってきた。そこからは帰る道が違うのでもうお別れの時間になってしまった。
「智くん、今日はありがとう」
「こちらこそだよ。また、で、デートしようね」
「ふふ。うん」
「本当に楽しかった」
「俺も最高に楽しかったよ」
「翔くん、また遊ぼうね」
「もちろん」
なんだか名残惜しくて、ずっと言葉を投げかける。今日が終わってほしくない。終わってもまた会えるよね?でも、もうそろそろ帰らなくては。しぶしぶ口を開く。
「もお、帰らなきゃね」
「そうだね…帰ろっか」
「じゃあ…」
――またね
プシュッ
缶ビールを開け、豪快に喉に流し込む。人生の中でこのときが一番幸せなんじゃないかとつくづく思う。
と同時に、涙が一粒流れた。
―――そう、俺、失恋したんだ。
俺の好きな人は泡のような存在だった。儚く脆く、美しい。そんな人だった。
俺は五人でアイドルとしてやってきた。この十年、楽しいことも辛いこともたくさんあった。もう俺らも年で体が動かなくなってきた。そろそろ引け目だったのだろう。俺の好きな人―智くんは辞めたい、と言い出した。
メンバーの内の一人はなんで、どうして、原因は、と次々に問い詰めた。一人はずっと俯いたまま一言も喋らなかった。一人は慌てて問い詰めているメンバーを止めにかかっていた。そして、俺は。ただ呆然とその光景を見ているだけだった。
その後、何度も何度も話し合いを重ね、結果活動休止という措置を取った。正直、まだまだこの五人で続ける、いや、勝手に続くと思っていたから衝撃的だった。記者会見を開いたときには数多なる報道陣に質問を投げかけられ、答えを出して、を繰り返した。
活動休止、か。そう何度も心の中で呟く。そして十年間秘めていた気持ち、それが智くんへの恋心だった。この休止するというタイミングで俺は、もうこの恋はやめてしまおうと思った。
アイドルとしてデビューしてから、ずっと貴方の背中を追い続けた。でも、俺が触れそうになったらまた遠くへ行ってしまう。ムズムズして、欲しくて欲しくてたまらなかった。
貴方の舌っ足らずで呼ぶ俺の名前。しなやかにでも大胆に踊る体。赤ちゃんのような、ミルクのような甘い匂い。時折見せる、無邪気な笑顔。
俺は、どれだけ貴方に恋してきたと思う?
智くんに会いたい。この恋心とやらは、こんなにも大きな…君にとって邪魔なものだった。
俺も貴方みたいに泡のようになったらどこまで遠くへ行ってもついていけるんだろうな。
それでも貴方は消えていってしまうんだ。
泡のように。