改札前の壁を指さして、彼女が立ち止まった。
何かと思って見てみると、そこに貼られていたのは鉄道会社の巨大ポスターだった。
人気の若手俳優と若手女優がCMをやっているやつだ。
CMは2人が遠距離恋愛中のカップルという設定で、遠距離恋愛につきものの紆余曲折を乗り越えて絆を深めるというストーリー仕立てになっていた。
人気俳優の出演に加え、人気バンドの音楽を使い、人気映画監督が監督したCMだったので、当然のように人気CMになった。
テーマ曲が頭にこびりつくくらい、やたらテレビでCMが流れていた。
ポスターには別々の駅のホームで佇む俳優と女優が並んでいる。
2人の間には、“「こっちに恋」「愛にきて」”いうコピー。
「このCM好きなんだけど、このコピーは駄洒落みたいでどうかと思う」
彼女はポスターを見つめながら言った。
「でも多分、有名なコピーライターが書いてるんじゃない?」
僕が笑いながら言うと、ええーと彼女は不服そうに声を上げて笑った。
「だって恥ずかしくなあい? “こっちに恋”“愛にきて”って」
そう言って笑っている彼女に、渋いフリをして一段低い声で「こっちに恋」と言うと、体をよじって大笑いした。
楽しそうに笑い転げている彼女を見ながら、
「でもあのCMと同じ状況になるんだよなぁ」
と呟くと、彼女は急に真顔になって小さく「そだね」と言った。
2年間の期間限定ではあるが、僕が転勤になり、住み慣れた土地を離れることになる。
当たり前のように僕らは遠距離恋愛を選んだが、不安がないわけではない。
さびしげに俯いている彼女に、「連休なんかは必ず帰ってくるから」と声をかけると、涙目の顔を上げて笑って、
「愛にきて!」
と小さい声で言った。
「スカイツリー行きたいって言ってなかったっけ、東京にも来なよ、一緒に行こうよ」
なだめるように付け加えて、再度低いトーンで「こっちに恋!」と言うと、彼女はまた楽しそうに大笑いした。
駄洒落とけなされたコピーだったが、実は気に入ってしまったのか、彼女は妙なイラストを描いてその自作スタンプまで作り、遠距離恋愛中の僕らの間で大変重宝されることになった。
最近すっかり出番は減ったものの、そのスタンプを見るたびに、あの改札前でのくだらないやりとりを思い出し、今でも少し笑ってしまうのだ。
君は今
どこにいるのかな
何してるのかな
元気でいるのかな
笑ってるのかな
泣いてるのかな
多分もう今生で
会うことはないんだろうな
あんなにぴったり重なっていた二人の線は
これからも
まるっきり知らない人どうしのように
遠く離れた平行線で進んでいく
ぐるぐる巡る輪廻の中で
僕たちはどんな約束をしていたんだろう
何回死んでも
君の笑顔は覚えてられそうだから
来世で君を見つけたら
また声をかけるよ
この人のことを初めていいなあと思ったのは、仕事帰りに飲みに行こうという話になったときだった。
残業していた彼と私と、彼とも私とも仲のよかった佐々木君の3人、帰りが一緒になった。
3人とも酒好きだったので、自然と飲みに行くことになったが、当時彼と私は仕事の関わりもなく、ほとんど話したことはなかった。
駅前までぶらぶら歩きながら、どこへ行こうという話になった。
向かう先には色とりどり飲食店が並んでいる。
どこがいいかね。
どこにしようか。
そんなことを言いながら並んで歩いていたが、3人ともシャキシャキ仕切るようなタイプではないから、そこから一向に話が進まない。
このままだと、どうしようーどうするーと言いながらぐるぐるこの辺りを徘徊し、そのうちダレてやっぱり帰ろうかという展開を迎えそうだ。
お腹が空いていて、一刻も早く何か食べたかった私は、駅の改札のすぐそばにある、韓国豚焼肉の店を思いついた。
毎日看板の写真がおいしそうだなと思いながら、まだ入ったことはない店だ。
どうしようーどうするーのループを早く終わらせたいものの、そこに石を投げるのは少し勇気がいった。
そこまで重いものは食べたくないかもしれない。
もっと安いお店のほうがいいのかな。
私はためらいながら「あの韓国豚焼肉の店は?」と言ってみた。
無駄にドキドキした。
そのとき、彼が「お、いいねえ」と言ってくれた。
寝ぼけたようなやさしさの、低い声だった。
小春日和に日向ぼっこでもしているような。
その「お、いいねえ」が、そのときの私にはとてもうれしかった。
ものすごくやさしくされたような気持ちになった。
そのまま3人でその店に向かい、会計時にみんなで引くほど飲み食いした。
それがきっかけで彼と私はよく話すようになり、のちに付き合うことになった。
どこへ行こうというときに、私が先にどこかを提案することが多いのだが、彼は相変わらず「お、いいねえ」と受け止めてくれる。
そのたびに私はほめられたようにうれしくなる。
そうして二人で今日も出かける。
彼は電車に揺られながら、隣でうとうとしている。
今はさ
こんなこと言われても
何の慰めにもならないだろうけど
ちょっとの間聞き流してね
笑ってる顔が好きだけど
怒ってる顔も寝てる顔もヘンな顔も好きだよ
元気でいてくれるとうれしいけど
元気じゃなくても好きだよ
たとえ病気になったって
痩せたって太ったってハゲたって
お金持ちでも貧乏でも
きっと好きでいちゃうんだろうなぁ
自分でも不思議
おばあさんになっても
変わらなさそうなんだ
そんな私がここにいるってことを
どうか忘れないでね
満を持して臨んだ
君への愛の告白は
緊張のあまり
愛の量と反比例するような
ささやき声になってしまった
あれ
笑わせようとしてやったんじゃないからね