新年の祝いを終えた翌日のことだ。ニェナはルヴィリアと共に、屋敷のバルコニーでアフタヌーンティーを楽しんでいた。
「昨日はありがとう、ルヴィリア」ニェナは紅茶を一口啜ると続けた。「おかげさまでとてもいい一日だったよ」
同じように紅茶を一口啜ったルヴィリアは、微笑みを浮かべた。
「どういたしまして。こちらこそ、楽しい一時を過ごさせてもらったよ」
「ハーウェルも来たらよかったのにね」
「一応、呼びはしたんだがな。何を遠慮しているんだか……」
そう言いながらルヴィリアは肩を竦めた。くすくすとニェナは鈴のような笑い声を上げた。
「照れちゃったんじゃない?」
「照れる? 何に?」
訝しげに眉間に皺を寄せたルヴィリアに、ニェナはにっこりと笑って続けた。
「綺麗に着飾ったルヴィリアにだよ」
平素の貴族のお嬢様らしかぬ格好を見慣れていると、あまりそういうことを意識しないが、節目節目の式典などで着飾ったルヴィリアを見ると、彼女もまた整った顔立ちの美人なのだということを改めて認識させられるというものだ。ハーウェルは見た目よりずっと純情なため、そんな美人を目の前にすると上手く喋ることができなくなってしまう。
「はあ?」
ルヴィリアはきょとんとしたように瞬きしたが、すぐに呆れたように肩を竦めると、話題を変えた。
「それはともかく、年が明けたわけだが……ニェナ、何か新年の抱負みたいなものはあるのか?」
「そうだなあ……あともう数年もしないうちに、本格的な修行が始まるだろうから、それまでに何か冒険みたいなことしてみたいなあ」
「冒険、か……。私もしてみたいものだ」
「ルヴィリアも一緒にしようよ! 二人でならきっと楽しいよ」
「そうだな。どうせなら、ハーウェルも一緒に連れて行こう。今でも一攫千金を夢見ているようだからな」
「一攫千金を夢見るより、普通に働いた方が楽だと思うけどなあ」
苦笑しながらもニェナは三人で未知の場所を冒険する様を思い浮かべて、うっとりした。
ぐったりとステラは机に突っ伏していた。
「ああ……しんどかった……」
口から溜息混じりのつぶやきが漏れる。
新しい年を迎える今日という日に、国を挙げての祝賀祭があった。祭りといっても、大聖堂で国王と王妃が新年の抱負を述べる厳かな式典である。儀式を終えたのちに、反比例するかのような華々しく騒々しい祭りが始まるのだ。
本来ならば、既に表舞台を去った身であるステラには、何の係わりもない行事であるはずだったが、何を思ったのか彼女にも式典の招待状が送られた。彼女は欠席を即断したが、同じく招待状を貰ったラインハルトに説得され、渋々と出席の回答を送ったのだ。
平素から研究のため、睡眠時間を削る悪癖のあるステラは、深夜三時に寝たにも係わらず、身支度のため二時間もしないうちに叩き起こされた。眠気覚めやらぬまま、顔を洗われ、髪を結われ、化粧を施され、ドレスを着させられた。
コルセットをこれでもかというほど締められて、苦しさに喘ぐステラを、身支度を整えたラインハルトが迎えにきた。彼は、屋敷の侍女たちの気合いの入れように苦笑すると、彼女に綺麗ですねと声をかけた。
「……ありがと」
照れくさくて目を伏せる彼女を、彼は優しい眼差しで見つめると、彼女に手を差し伸べた。その手を取って、ステラは大聖堂へと向かった。
式典は滞りなく終了した。しかし、その後の祝賀祭にて、久々に姿を現した彼女を一目見ようとする者たちや、一言交わそうとする者たちに揉みくちゃにされて、彼女は這々の体で屋敷に戻ってきたのだった。
コンコンとノックの音が部屋に響く。どうぞと小さく返すと、ゆっくりと扉が開かれて、ラインハルトが中に入ってきた。
「今日はお疲れ様でした」
彼女はゆっくりと体を起こすと、彼の方へと向き直った。彼は手に湯気の立つカップを持っている。
「本当に疲れたわ……」
彼からカップを受け取りながら、ステラは口を開いた。カップからはアールグレイの芳醇な香りが漂う。
「……もう、行けって言わないわよね?」
そう言いながら、上目遣いで彼を見上げる。小さく笑うと、彼はええと頷いた。あの騒ぎを思い返して苦笑を浮かべる。
「まさか、あんなに人だかりができるとは思いませんでした」
「まったく、見世物にでもなった気分だったわ」
「それだけあなたの人気が衰えていないということですよ」
彼の言葉に彼女はどうだか、と肩を竦めた。
「まあ、いいわ。式典自体は悪いものじゃなかったし」ふふと口元を綻ばせると続ける。「結構な年月と犠牲を払ったのだもの。この穏やかな時間が長く続けばいいわね」
秋は夕暮れ、今日は誕生日!
夏の暑い日のことだった。
風を通すためだろうか、屋敷中の襖が開けられていた。古めかしい日本建築のお屋敷は、襖を開け放ってしまえば、まるで大きな一つの部屋のようだった。
屋敷の中は薄暗くて、縁側の方から差し込む太陽の光が強い逆光を生む。そのせいで、夢花は自分の前に立つ彼が、本当に彼なのか強い確信が持てなかった。
「夢花?」彼が小首を傾げる動作をした。その声音は紛れもなく彼で、不思議そうな色が見え隠れする。「どうかしたのかい」
夢花は首を横に振った。こうすることで、悪い夢からも醒めることができるような気がした。
「何でもない。大丈夫だよ」
「そうかい?」彼女の言葉に返答する彼の声音は、心配げだった。「何だか、顔色が悪いようだけど……」
夢花は微笑を浮かべると、彼の手を取った。
「それはね、部屋の中にいるからだよ!」彼の脇をすり抜けて、ぐいぐいと引っ張る。「松緒さんも籠ってばっかりじゃ駄目。たまにはお日様に当たらないと」
そう言いながら夢花は縁側に向かって歩き出す。彼女の為すがままにされながら、彼は苦笑を浮かべた。
「日の光は、僕みたいな陰の者にはきついんだよ」
「陰だろうが陽だろうが知らないけど、人間だったらお日様に当たっても平気でしょ?」夢花はつないだ手を握り締めた。「わたしより、松緒さんの方が顔色悪いよ。蒼白いもん」
彼がそっと手を握り返してくれたので、夢花は立ち止まると振り返った。今度は彼の顔がよく見える。自分を見る眼差しは穏やかで優しい。
売り言葉に買い言葉という感じで口にしてしまったが、こうやって見ると、本当に彼は蒼白い顔をしている。人の寝静まった夜中に何かをしているせい――寝不足だろう。日中も起きているのに、夜中も起きているからそういうことになる。どちらでも何をしているのか、夢花はよく知らないが、せめてどちらかだけにして、どちらかで眠ったらいいのに。
「夢花?」
ううん、と彼女は再び首を横に振ると、前を向いて歩き出した。
縁側には燦々と日光が降り注いでいる。日が当たらないせいで、薄暗くほんのり冷えた部屋から縁側に出ると、むっとした熱気が顔に当たった。
その熱気に彼はたじろいだ。
「あっつ……」思わずといったように洩らす。「冷たいお茶でも持ってこさせようか?」
外の眩しさに目を細めながら、夢花は頷くと、彼の手を離した。彼は遠くから様子を窺っていた使用人に手を振る。そそくさと使用人が近づいてくるのが見えた。
夢花は縁側に座り込むと、足をぶらぶらとさせた。目の前には庭園が広がるものの、直射日光に当たっていて、いかにも萎れているように見える。小さな池があるが、その池だって干上がりそうだ。
ぎっと床板が軋んだ。夢花がそちらの方に顔を向けたとき、彼が両手に水滴のついたグラスを持って、座ろうとするところだった。彼は夢花と同じように縁側に座ると、持っていたグラスの片方を渡す。
受け取ってすぐに夢花はグラスの中身を飲み干した。中見は麦茶だった。
ことりと背後で音がしたので振り返ると、先ほど彼と話していた使用人が、二つの器を載せた盆を二人の後ろに置いた。その人は夢花ににこりと微笑みを向けると、小さく頭を下げて、空になったグラスと共にまた暗がりの中に去っていってしまった。
「ねえ、松緒さん」
夢花は盆を引き寄せて、器の中身を確かめる。器にはゼリーとシャーベットが盛られていた。彼の指示なのか、使用人の好意なのか、夢花にはわからない。わからないがこれはとても嬉しい。
「何だい?」
夢花は彼に器を渡した。きょとんとしたようにこちらを見る彼に、彼女は言った。
「さっきの人がこれも持ってきてくれたの」
「ああ……あとで礼を言っておくよ」
「松緒さん、どっちがいい?」夢花はもう一つの器の中身を彼に見せながら言う。「こっちはシャーベット、そっちはゼリー」
彼はやわく微笑んだ。
「僕はこちらにするよ。君はシャーベットの方が好きだろ?」
夢花は目をぱちくりさせてから、嬉しそうにはにかんだ。
「えへへ、ありがと! 松緒さん」
どういたしまして、と彼は答えながら、ゼリーを口にした。夏蜜柑のゼリーだった。凍らないように、しかししっかりと冷やされたそのゼリーは、ほんのりと苦かった。
花束を抱えた千春はどきどきしながら、インターホンのベルを鳴らした。ピンポーンという音が鳴ってしばらくすると扉が開いた。
「いらっしゃい、久住さん」
そう言いながら彼女を出迎えたのは、バイト先の所員であり、千春の恩人である葛西瑞生だった。彼は彼女の姿を認めると、口許を綻ばせた。
大きく扉を開けると言う。
「どうぞ」
お邪魔しますと口にして、千春は彼の家の中に足を一歩踏み出した。玄関の三和土の隅っこに自分の履物を置いて、床に足を下ろした。
所在なげに立つ彼女を、彼はリビングへと案内した。そこはまるでモデル部屋のようで、整頓されたすっきりとした部屋だ。必要最低限の家具しかなく、その他は何もない。
部屋を見た千春は別の意味で目を瞠った。不躾とは思いながらも、部屋の中を見回す。この部屋には家主の生活がわかりそうなものは何一つ置いていなかった。敢えて、そうしているのか、そうではないのか。
「最近、帰っていなかったもので、散らかってますけど……」
千春の様子に気づいてか、そう言う彼に、彼女は微笑んで返した。
「充分に片付いてますよ! これで散らかってるなんて言われちゃ、わたしの家なんてゴミ屋敷になっちゃいます」
欲しいなと思った瞬間に買ってしまう悪癖のせいで、千春の部屋の中はもので溢れ返っている。この様を、世間の人は『ゴミ屋敷』というのだろう。そう言われても過言ではないほど散らかっているのだ。
そう、だからこそ千春はこの花束をここに持ってきたのだった。
バイト先のお客さんに貰った紫陽花の花束。落ち着いたペールブルーの花を基調に、濃い青、藤色、黄緑色などの多種多様な紫陽花がまとめられている。せっかくだし挿し木をしたいなと思っていたところ、彼が場所を貸そうかと申し出てくれたのだ。
彼が花瓶を持ってきた。それに花を入れると、千春は彼を見つめた。
「本当にいいんですか? ここに置いてもらって」
ええ、と彼は頷いた。
「挿し穂作って、しばらくしたら鉢植えにしたいと思っているんですけど……」
「どうぞ。部屋は余っていますから」
即答で快諾する彼に若干気が引けながらも、千春はおずおずと言った。
「頻繁にお邪魔することになると思いますけど……」
彼はくすりと笑った。
「久住さんなら構いませんよ」そう言うと、彼はポケットに手を突っ込んで鍵を取り出すと、千春に手渡した。「好きに使ってください」