見たことのない速度で風景が過ぎ去っていく。どんどん血の気が失せていくのを感じながらも、ステラは馬を駆けるラインハルトの腰をしっかりと掴んでいた。丘を、街を、平野を瞬く間に駆け抜けて、一体ここはどこなのだろう。もう三時間ぐらいは馬に跨っているような気がする。
非常に疲れた。腰に回す腕の力が段々と抜けていく。そろそろ一旦休憩を入れてくれてもよいのではないか。そう思いつつ声をかけても風音に掻き消されて、自分の耳にすら届かない。一体全体、何に焦ってこんな早駆けをしているのだろう。
彼の背中に頭を預けて、ステラは溶けていく景色をぼんやりと見ていた。馬上は不規則に揺れるが、慣れれば規則的に感じてくる。規則的になると今度はそれが眠気を呼び起こす。何とかあくびを噛み殺していたが、次第にあくびは止まらなくなり、瞼が重たくなってきた。こんな状態で居眠りをするのは危険だと、重々承知しているが、眠たいものは眠たい。
ステラの腕の力が徐々に抜けていくのを感じて、ラインハルトは腰に回る彼女の腕を掴むと、馬の速度をゆっくりと落としていく。常足まで速度を落とすと、そのまま街道を走らせることにした。彼女の腕を掴みながら後ろ手に彼女の背を叩く。とんとんと軽く叩いても寝息が返ってくるだけなので、少し強めに叩いてみると身じろぎした。ううんと唸り声が聞こえて、背中に感じていた重みが消える。
「――ステラ、起きてください」
「……起きた」
しばらくして憮然とした返事あった。見なくても、ぶすっとしている表情が目に浮かぶようだ。想像して少し微笑むと、ラインハルトは掴んでいた彼女の腕を離す。再び、彼女は彼の腰にしっかりと抱きついた。
「少し休んでくださらない?」
背後から彼女の声が続く。
「さっきからずっと走りっ放しで、さすがに……これ以上ないくらい疲れたわ。わたしはあなたと同じ体力じゃないのよ」
街道を進む二人は森の中に入っていた。日は高く昇っているが、そう広い森ではない。日が暮れるまでには森を抜けるだろう。この森を抜けたら、次の街に着く。
「もう少しだけ、我慢してくださいますか」
はあ、と大きな溜息が聞こえた。ぎゅうと腰に回る腕に力がこもる。
「……あと少しだけよ」
謝意と労いを込めてラインハルトは軽く彼女の腕を叩くと、再び馬を駆け始める。
ぐすぐすと泣きじゃくるアンネを前にして、ナハトは困ったように立ち尽くしている。
「……あ、アンネ? どうしたの?」
恐る恐る声をかけるが、彼女は首を激しく横に振るばかりで何も言わない。大粒の涙が彼女の両目から溢れて、ぽろぽろと地面に向かって落ちていく。
彼女の背中をゆっくりとさすってやりながらも、ナハトはどんな言葉をかけてやればいいのかわからない。自分に上手にひとを慰める術のないことは充分に承知していた。
だから、自分にできることと言えば、彼女の気の済むまで泣かせてやることだが、何分場所が悪かった。二人がいる、このアカシアの谷は、強い魔物がわんさかと出現する場所で、今も襲いかかってきた魔物を屠ったばかりだ。
わたし、としゃくり上げながらもアンネが口を開いた。
「嘘、をついたんです……ごめんなさい……」
ナハトは首を傾げた。
「どんな?」
彼女は身震いをした。これを告げることで、彼がどれだけ怒るかわからなくて――いや、嫌われるかもしれないのが怖かったからだ。自分でもどうしてこんなことを言ったのかわからない。
「……レイさんがアカシアの谷にいるって……」
「ああ、何だ」彼はあっけらかんと笑った。「そんなの別にいいよ」
ナハトは少し膝を折ると彼女と目を合わせた。アンネは兎のように赤くて怯えた目をしている。何だかとても抱きしめてやりたくなったが、逆に怖がらせそうだったので、ナハトは己を律した。
「怒ってねェから、そんな気にすんなって」
ナハトはアンネの頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「それを言いに来てくれたんだ。ありがとな」
またアンネの両目から涙が溢れてくる。彼は困ったように眉を八の字にして、自分の頭をがしがしと掻いた。
「あのさ……オレ、アンネも知っての通り、レイは大事なんだけど……お前のことも同じか、それ以上に大事なんだよ」だから、と彼は続ける。「できれば、笑っててくれた方が嬉しいんだけど」
嘘、とアンネが首を横に振った。ナハトはアンネの名を呼んだ。恐る恐る顔を上げた彼女の額を指で軽く突いた。
「バカ、こんなことで嘘なんかつかねェよ」
「……わたしのこと、今ので嫌いになったりしませんか……?」
ナハトは優しい笑みを浮かべた。
「たぶん、オレ、お前のこと好きだからさ。今の何だか可愛いなって思うよ」
しんしんと雪が降っている。夜半から降っていたらしいそれは、すっかりと辺りを白く染め上げていた。朝日を受けてそれらはきらきらと輝いている。
(――通りで冷えるはずだわ)
窓の外に広がる一面の銀世界を眺めながら、マーシャは胸中で嘆息した。身を切るような寒気を覚えて飛び起きたのが、ついさっき。暖炉の火が消えており、それで部屋が冷え込んだらしい。
毛皮のスリッパに足を入れ、毛布にくるまりながら立ち上がる。暖炉の傍にある小さなテーブルの上には書きかけの手紙が放置してあった。翌朝に続きを書こうと思って眠りについたのだが、すっかりインクが固まってしまっている。
まずは薪を貰ってこねばならない。彼女は重たい足を引きずるようにして、宿の裏手の薪置き場に向かった。ちょうど住み込みの従業員が薪を割っているところで、いくつか余分に薪を貰って部屋に引き返す。吐く息は白く、朝日にほのかに輝く。
暖炉に薪を入れると、マッチを擦って火をつける。一緒に貰った細枝に火を移して種火とし、少しずつ薪を足していく。小さかった火はやがて炎となり、ちょっとずつ暖かくなってくる。
かじかむ手を少しでも早く温まるように暖炉にかざす。指の隙間から見える、炎のゆらめきを見ていると、また睡魔が戻ってくるような気がしてくる。いけないとばかりに首を振り、手をさすり、揉み、かざすを繰り返す。
やっと満足に指が動くようになってきた頃に、彼女は固まったインクを持ってきた。これも温めたら書けるようになるだろうか。インクが溶けるまで、文面を考えていよう。
ゆらゆら、ゆらゆら。炎が右に左にゆらめいている。時折、火の粉が爆ぜる。降り積もる雪のように穏やかでゆったりとした時間が流れていく。
隣室から、寒いと仲間の叫ぶ声が聞こえた。小さな宿屋ゆえに声が丸聞こえだ。彼女はふふと含み笑うと、余分に貰っていた薪を分けに行く。少しお喋りをしているうちに、階下から人のざわめきが聞こえ出す。ようやく人々が活動する時間になってきた。
もう少ししてから朝食を摂りに行こうと約束して、彼女は自室に戻ってきた。そのついでに手紙を出してしまおうと思ったからだ。
インクは液体に戻っていた。ペン先を浸して、少し試し書きをする。――問題なく書けそうだ。
遠い場所で、今も変わらずに仕事をしているであろう彼を想う。夜、寝る前に見かけても、朝、起きたときに見かけても、彼はいつでも机に向かっていた。いつ休んでいるのかわからない彼が少しでも自分を顧みるように、そんな祈りを込めて、文字を綴り始める。
――拝啓、親愛なるあなたへ。寒い季節になってきましたね。わたしたちは今、ネージュの町にいます。名の通り、降り積もる白雪が美しく、また凍えそうなほど寒いです。ただでさえ風邪の引きやすい時期ですから、暖かくしてきちんと休養を取るようにしてください。仕事のしすぎはだめですよ。
煌びやかに飾りつけられた室内に、贅を尽くした料理に、ここぞとばかりに着飾った人、人、人。いくら自分が近衛兵だとしても、場違いであることには変わりない。
ユダはげんなりとしていた。場に合うようにと何故か着せられた装束が重たい。
今夜は晩餐会が開かれている。王女の快気祝いという名目だとユダは聞いていた。
あまりにも居心地が悪いので、早く退散したかったのだが、自分の腕をガッチリと掴むミュリエルがそれを許さない。周囲の目もあるので振り払いたかったが、今や彼女が主君である。主君をこちらから振り払うわけにもいかない。
「……姫君、そろそろ腕を離して頂けますか」
「嫌です」
ミュリエルはユダの要請を満面の笑みで拒否した。はあと彼は深い溜息をつく。
どうも彼女は自分に好意を抱いているらしく、事あるごとに接触を図られる。そのたびにどうにかこうにか躱していたが、今回は躱し切れなかった。
(厭われていてもおかしくないはずなのだが……)
あの出会いから始まって、帰城するまでの軌跡を振り返って、どこにそんな好意を抱く要素があったのか。自分には全く理解不能だ。
王や王妃にも彼女の態度を改めさせるように陳情したが、付き合ってやってくれと逆に頼まれる始末。全く、やってられないとはこのことを言うのだろう。罪悪感だけが膨らんでいく。
「ほら、姫君。あそこで大臣が震えていますから。そろそろ離れてください」
ユダは王の近くに控えている老年の男性をそっと指して言った。微笑ましげにこちらを見る王たちと違い、大臣は険しい顔をしてぷるぷると震えている。雷が落ちるのも時間の問題といったところだろう。
(言ってる間に……来たな)
再度、ユダは深々と溜息をついた。
大臣は二人の目の前にやってくると、ミュリエルを見て口を開いた。
「姫様、さすがにはしたないですぞ」
ミュリエルは不満げに頬を膨らませた。両親が許しているのだから、その家臣にあれこれ言われる筋合いはないとでも言いたげだ。
「そういうのはあとで好きなだけすればよろしいですから、今はもう少し品よくなさいませ」
黙って聞いていたユダが怪訝そうに眉をひそめた。何だか大臣の言葉がおかしく聞こえる。
大臣は次にユダを見た。
「元々、あなたが仏頂面なのは知っていますが、少しは愛想よくなさい」
「お言葉ですが、大臣。私はただの近衛兵です。本来ならばこの場にいるべきでは……」
困惑するユダを見て、大臣は首を傾げる。
「何を言うのですか。あなた方の婚約を祝う祝賀会なのですから、あなたも主役ですよ」
「き……聞いておりませんが……」
ユダは表情を凍りつかせた。大臣はきっと眉を吊り上げて、ミュリエルを睨みつける。
「姫様! あなたが彼に伝えるとお申し出になられたのでしょう!」
大臣の雷が落ちたが彼女は悪びれることなく、満面の笑みを浮かべて口を開いた。大臣がそれに対して、またあれこれと小言を口にしている。しかし、衝撃で固まるユダの耳には、もう何も入っていなかった。願わくば、この晩餐会が終わるまで、それを続けていてほしい。
その日が近づくにつれ、郡司は段々と落ち着かなくなってきた。
そわそわとした気分のまま、あちらこちらをふらふらふらふら出歩いて、どうしようもない気持ちをどうにもできず、歩き疲れてへとへとになって部屋に戻ってくる。それを何度も繰り返した。
ベッドに寝転んで、寝てしまおうと思えども、神経だけが昂っていて、すぐには眠れずに周囲の生活音が耳に入ってくる。
時折、ケータイが震えるので、逸る気持ちを抑えながらも画面を開くと、それはただの友人からの誘いだった。無視はしないが、がっかりしたのは事実だ。
その日はもう、細やかな物音にですら耳が嫌でも反応してしまう。
こんこんと玄関の方からノックが聞こえてくる。遠くの方から「高千穂くんいる?」という声がする。
一気に血流が動き出したのか、一気に熱くなってきた。特に顔の辺りが湯気でも出てるんじゃないかって思うほどに、熱い。
枕に顔を押し付けて、郡司は玄関扉の前にいる彼女に向かって、開いてる、と声を張り上げた。
しばらく間があってから、ほんとだ、というつぶやきが聞こえた。扉を開ける音は聞こえなかった。
床が軋んで、静かな足音が自分の居場所に近づいていく。ふ、と足音が止まった。背後に気配がする。緩慢な動作で郡司は寝転んだ。
心配そうに自分を見下ろす彼女と目が合った
「高千穂くん、どうしたの。風邪引いた? 大丈夫?」
「……いや、何も要らねえ。別に風邪引いたとかじゃねえから」
「ほんと?」
眉根を寄せて彼女は郡司の顔を覗き込んだ。また彼の顔が朱色の染まっていく。気づかわしげに首を傾げる。
「……なら、いいんだけど」
ふうとてのひらを頬にあてながら彼女は溜息をついた。
「あのね、高千穂くん」
きょろきょろと辺りを見回すと、いつの間にか郡司は向こうの隅に立っていた。
「無理しないでね」
「大丈夫だって」
「なら、何でそんなところにいるの」
「それは、まあ、気にすんな」
「気にすんなって言われても……」
困ったように彼女は眉を八の字にした。しばらく、じいっと郡司を見つめていたが、彼は梃子でもそこから動かぬらしいと悟ったようだ。
すっと立ち上がると、音もなく郡司との間を詰めていく。
心臓が早鐘を打つせいで、何だか頭がぽーっとしている郡司は、気づいたときには真正面に彼女が立っていて、思わず出そうになった悲鳴を呑み込んだ。
彼女は手を伸ばすと、てのひらで郡司の両頬を包み込む。あと少しでキスできそうな距離。
「お誕生日、おめでとう。高千穂くん」
そうささやきながら、彼女は手を放して離れていく。
「あのね、プレゼントなんだけど――」
「待ってくれ」
彼女の言葉を遮るようにして、郡司が声を上げた。真っ赤な顔は治っていない。
「あのさ、月読サンにお願いがあるんだけどさ……」
「なあに?」
「……俺のこと、名前で呼んでくんない?」
彼女は目をぱちりと見開いて、それから菫のような可憐な微笑みを浮かべた。
もう一度、手を伸ばして彼の頬にふれる。彼の体温がてのひらに伝わってくる。郡司くん。顔を近づけてささやいた。
湯気でも出ているんじゃないかと思うくらい、郡司の顔が真っ赤っかになった。ぶわっと血流が逆流したようなそんな勢いで、顔が熱くなっていく。心臓がばくばくと動いているを感じる。心臓からこんな音がするなんて、一駅分全力でダッシュしたときぐらいだ。
「郡司くん」もう一度名を読んでから、彼女は照れ臭そうにはにかんだ。「ただ名前を呼ぶだけなのに、とてもとても恥ずかしいね。何でだろ」
ふふ、と口元を抑えたその姿がとても愛おしくて、郡司は彼女を強く抱きしめていた。