煌びやかに飾りつけられた室内に、贅を尽くした料理に、ここぞとばかりに着飾った人、人、人。いくら自分が近衛兵だとしても、場違いであることには変わりない。
ユダはげんなりとしていた。場に合うようにと何故か着せられた装束が重たい。
今夜は晩餐会が開かれている。王女の快気祝いという名目だとユダは聞いていた。
あまりにも居心地が悪いので、早く退散したかったのだが、自分の腕をガッチリと掴むミュリエルがそれを許さない。周囲の目もあるので振り払いたかったが、今や彼女が主君である。主君をこちらから振り払うわけにもいかない。
「……姫君、そろそろ腕を離して頂けますか」
「嫌です」
ミュリエルはユダの要請を満面の笑みで拒否した。はあと彼は深い溜息をつく。
どうも彼女は自分に好意を抱いているらしく、事あるごとに接触を図られる。そのたびにどうにかこうにか躱していたが、今回は躱し切れなかった。
(厭われていてもおかしくないはずなのだが……)
あの出会いから始まって、帰城するまでの軌跡を振り返って、どこにそんな好意を抱く要素があったのか。自分には全く理解不能だ。
王や王妃にも彼女の態度を改めさせるように陳情したが、付き合ってやってくれと逆に頼まれる始末。全く、やってられないとはこのことを言うのだろう。罪悪感だけが膨らんでいく。
「ほら、姫君。あそこで大臣が震えていますから。そろそろ離れてください」
ユダは王の近くに控えている老年の男性をそっと指して言った。微笑ましげにこちらを見る王たちと違い、大臣は険しい顔をしてぷるぷると震えている。雷が落ちるのも時間の問題といったところだろう。
(言ってる間に……来たな)
再度、ユダは深々と溜息をついた。
大臣は二人の目の前にやってくると、ミュリエルを見て口を開いた。
「姫様、さすがにはしたないですぞ」
ミュリエルは不満げに頬を膨らませた。両親が許しているのだから、その家臣にあれこれ言われる筋合いはないとでも言いたげだ。
「そういうのはあとで好きなだけすればよろしいですから、今はもう少し品よくなさいませ」
黙って聞いていたユダが怪訝そうに眉をひそめた。何だか大臣の言葉がおかしく聞こえる。
大臣は次にユダを見た。
「元々、あなたが仏頂面なのは知っていますが、少しは愛想よくなさい」
「お言葉ですが、大臣。私はただの近衛兵です。本来ならばこの場にいるべきでは……」
困惑するユダを見て、大臣は首を傾げる。
「何を言うのですか。あなた方の婚約を祝う祝賀会なのですから、あなたも主役ですよ」
「き……聞いておりませんが……」
ユダは表情を凍りつかせた。大臣はきっと眉を吊り上げて、ミュリエルを睨みつける。
「姫様! あなたが彼に伝えるとお申し出になられたのでしょう!」
大臣の雷が落ちたが彼女は悪びれることなく、満面の笑みを浮かべて口を開いた。大臣がそれに対して、またあれこれと小言を口にしている。しかし、衝撃で固まるユダの耳には、もう何も入っていなかった。願わくば、この晩餐会が終わるまで、それを続けていてほしい。
その日が近づくにつれ、郡司は段々と落ち着かなくなってきた。
そわそわとした気分のまま、あちらこちらをふらふらふらふら出歩いて、どうしようもない気持ちをどうにもできず、歩き疲れてへとへとになって部屋に戻ってくる。それを何度も繰り返した。
ベッドに寝転んで、寝てしまおうと思えども、神経だけが昂っていて、すぐには眠れずに周囲の生活音が耳に入ってくる。
時折、ケータイが震えるので、逸る気持ちを抑えながらも画面を開くと、それはただの友人からの誘いだった。無視はしないが、がっかりしたのは事実だ。
その日はもう、細やかな物音にですら耳が嫌でも反応してしまう。
こんこんと玄関の方からノックが聞こえてくる。遠くの方から「高千穂くんいる?」という声がする。
一気に血流が動き出したのか、一気に熱くなってきた。特に顔の辺りが湯気でも出てるんじゃないかって思うほどに、熱い。
枕に顔を押し付けて、郡司は玄関扉の前にいる彼女に向かって、開いてる、と声を張り上げた。
しばらく間があってから、ほんとだ、というつぶやきが聞こえた。扉を開ける音は聞こえなかった。
床が軋んで、静かな足音が自分の居場所に近づいていく。ふ、と足音が止まった。背後に気配がする。緩慢な動作で郡司は寝転んだ。
心配そうに自分を見下ろす彼女と目が合った
「高千穂くん、どうしたの。風邪引いた? 大丈夫?」
「……いや、何も要らねえ。別に風邪引いたとかじゃねえから」
「ほんと?」
眉根を寄せて彼女は郡司の顔を覗き込んだ。また彼の顔が朱色の染まっていく。気づかわしげに首を傾げる。
「……なら、いいんだけど」
ふうとてのひらを頬にあてながら彼女は溜息をついた。
「あのね、高千穂くん」
きょろきょろと辺りを見回すと、いつの間にか郡司は向こうの隅に立っていた。
「無理しないでね」
「大丈夫だって」
「なら、何でそんなところにいるの」
「それは、まあ、気にすんな」
「気にすんなって言われても……」
困ったように彼女は眉を八の字にした。しばらく、じいっと郡司を見つめていたが、彼は梃子でもそこから動かぬらしいと悟ったようだ。
すっと立ち上がると、音もなく郡司との間を詰めていく。
心臓が早鐘を打つせいで、何だか頭がぽーっとしている郡司は、気づいたときには真正面に彼女が立っていて、思わず出そうになった悲鳴を呑み込んだ。
彼女は手を伸ばすと、てのひらで郡司の両頬を包み込む。あと少しでキスできそうな距離。
「お誕生日、おめでとう。高千穂くん」
そうささやきながら、彼女は手を放して離れていく。
「あのね、プレゼントなんだけど――」
「待ってくれ」
彼女の言葉を遮るようにして、郡司が声を上げた。真っ赤な顔は治っていない。
「あのさ、月読サンにお願いがあるんだけどさ……」
「なあに?」
「……俺のこと、名前で呼んでくんない?」
彼女は目をぱちりと見開いて、それから菫のような可憐な微笑みを浮かべた。
もう一度、手を伸ばして彼の頬にふれる。彼の体温がてのひらに伝わってくる。郡司くん。顔を近づけてささやいた。
湯気でも出ているんじゃないかと思うくらい、郡司の顔が真っ赤っかになった。ぶわっと血流が逆流したようなそんな勢いで、顔が熱くなっていく。心臓がばくばくと動いているを感じる。心臓からこんな音がするなんて、一駅分全力でダッシュしたときぐらいだ。
「郡司くん」もう一度名を読んでから、彼女は照れ臭そうにはにかんだ。「ただ名前を呼ぶだけなのに、とてもとても恥ずかしいね。何でだろ」
ふふ、と口元を抑えたその姿がとても愛おしくて、郡司は彼女を強く抱きしめていた。
菫は大学の講堂前のベンチに座って、空を仰いでいた。
辺りを焼き尽くすのではないかと思うほどの熱波を放つ太陽が、燦々と輝く長い長い夏が、ようやく終わって秋が来た。それで喜べたのもほんの束の間で、あっという間に冬がやってきた。
今日の朝は特に寒かった。だから、ヒートテックのシャツを着て、もこもこのセーターを着て、ニットのスカートに裏起毛のタイツもばっちり。手触りのいいフリースの上着も着ている。昼間になると却って暑いかもしれないが、そのときは脱げばいいだけのこと。
実際に昼になって、こうやって外にいると、日向にずっといれば確かに暑いかもしれない。でも、日陰にあるベンチに座る菫にとっては、時折、冷たい風も吹くから丁度よかったと思っている。
空は北の方向は真っ青で、南の方向が灰色になっている。家に帰る頃には、もしかすると雨が降っているかもしれない。折り畳み傘を持ってくるのを忘れてしまった。最寄り駅から家までの短い時間、雨に濡れることになるかもしれない。――そんなとりとめのないことを考えながら、菫は彼を待っていた。
ふと視界に影が差した。菫、と名前を呼ばれたので、彼女は振り向いた。
「待たせて済まない」
彼女の顔がぱっと明るく輝いた。
「伸くん!」彼女はぽんぽんと自分の隣に座るよう彼に促した。「さっき来たところだから大丈夫だよ」
彼は菫の隣に座りながら、掌を彼女の頬にあてた。彼女の頬はひんやりとしていて、到底数分前に来たとは思えない。彼女の顔をよく見ると、鼻先や頬骨の辺りが赤くなっている。
「……の、伸くん?」
自分を見つめる彼の真剣な眼差しにどぎまぎして、菫は恐る恐る声をかけた。彼が寡黙で思索に耽る性質だということはわかっているものの、ずっと凝視されるのは気恥ずかしいというもの。
「ああ、いや……寒かっただろう」
彼は控えめな笑みを口許に浮かべると、自分のマフラーを彼女に巻いた。ふわふわのマフラーに菫の顔が埋もれてしまう。何とか顔を出した菫は彼に向かって大丈夫だとでも言いたげに、にっこり笑った。それにしても、この肌触り、憶えがあるぞ。
「伸くん……これって、もしかして」
ちらりと彼を見やると、彼は頷いた。
「ああ。お前に貰ったものだ。愛用している」
彼の率直な言葉は弾丸のようで、菫の心を撃ち抜いていく。嬉しさと気恥ずかしさで菫は顔を赤くした。
「気に入ってくれてるなら……嬉しい」
彼女はそう言うと、はにかんだ。
蝉時雨が降り注ぐ昼半ば。太陽に熱されたコンクリートから湯気が立ち上っているのではないかと思うほど、辺りは蒸し暑い。こんなかんかん照りでは打ち水も大した効果を持たなそうだ。
直子と匠は夏期講習の帰り道を歩いていた。別に示し合わせたわけではなく、何となく気づけば一緒になっていた。特に何か喋るわけでもなく、彼女が先を歩いて、彼がその後ろを歩いている。
(抜かしたらいいのに)
歩幅も歩く速度も違うから、きっと歩きにくいだろうに。そんなことを思いながら彼女は歩いていた。
「直子」
蝉の大合唱に紛れて、彼が呼んだことに気づかなかった直子は、もう一度、強めに声をかけられて、ようやく気づいて立ち止まった。振り返って見た彼の表情は、語調に反して穏やかだった。
「何?」
「明日も来るの?」
怪訝そうに直子は眉をひそめた。
夏期講習は必修の二日間を除いて選択制だ。推薦やら総合型選抜やらで進学先が決まっている人は、必修の二日間を受けたあとは、残り僅かな夏休みを満喫している。彼もどちらかというとその口のはずだった。決まりそうだと自分に自慢してたくらいなのだから。
「まあ、一応」
推薦を使えるほどの成績がない彼女は、普通に入試を受けるしかない。正直なところ、塾の夏期講習を受けている方が自分のためにはなるだろうけど、家のお金に余裕はない。とはいえ自宅では気が散って勉強できないために、学校に通っている。
「ふーん……そうなんだ。俺も行こっかな。練習がなかったら、毎日、暇で暇で……」
そんなことを口にする彼に何と返していいのかわからず、直子は黙っていた。
大体、彼がこういう軽口を叩くときは、何か悩んでいるときだ。でも、もう直子には彼の悩みに何か応えることはできない。それは彼が山の頂上で悩んでいるのに、自分は麓で応えているようなものだからだ。
二人の間の沈黙を埋めるように、蝉が鳴いている。慣れてくると並木路の枝葉が揺れる音や、時折強めに吹く風の音が聞こえるようになってくる。
直子が目を閉じてそれらに聴き入っていると、突然びゅうと突風が吹きつけて、ぐらりと体が傾いだ。
「直子!」
たたらを踏むこともできずに倒れる彼女の腕を、彼が掴んだ。彼の手は大きくて力強かった。
「……ありがとう」
彼女は小さく呟いた。どういたしましてと返ってくる。
「俺、明日も行くよ」
唐突に彼が言った言葉に、直子は困惑した。曖昧な返事を口にしながら、好きにすればと言いそうになったのを、やっとのことで呑み込んだ。
そんな彼女の胸中を知ってか知らずか、彼は満面の笑みを浮かべると言う。
「直子に会いたいから」
絶句する直子を見て、彼は楽しそうに笑い声を上げた。
「好きにすれば」
そう言い捨てて、直子はさっさと歩き出した。自分の顔が熱いのは、たぶん、照りつける太陽のせいだろう。
ふ、と蝋燭の火が揺れた。
閉め切った部屋の中、どこから隙間風が入り込んだのか。
マルスは目を閉じると、集中して風の流れを探る。せっかくストーブを焚いているというのに、暖気が逃げていってしまうのでは甲斐がない。
左後方から寒気を感じる。彼は椅子から立ち上がると、その方向へと歩き出した。どうやら窓が少し開いていたらしい。おそらく換気のために開けたとき、きちんと閉め切れてなかったのだろう。
彼は踵を返すと再び座った。目の前にうずたかく書類が積まれている。見るだに嫌になる量だが、誰かがやらねば終わらない。幸いにも、自分は仕事をこなしていくスピードが早い。
冷めたコーヒーを一口啜ると、彼はペンを手に取って、仕事を始めた。ガリガリとペンが紙を削る音が響く。書類の文字を追って、サイン。不要なものは破り捨てる。書類に文字を書きつけて、サイン。必要なものを封する。
いつの間にかそれらは一定のリズムを刻んでいて、さくさくさくと気づけば書類の山は半分くらいになっている。この調子で片付けてしまおう。何事も波を逃してはならない。立ち止まってしまえば、一歩も動けなくなってしまうように。
コンコンと扉がノックされた。彼は自分の刻むリズムに集中しているうちに、周りの音が耳に入らなくなってしまっているのだ。もう一度、ノックされる。彼は気づかない。
ノックの主は痺れを切らしたらしい。外で開けますよと言っているのが朧気に聞こえくる。彼は一向に返事をしない。ゆっくりとノブが回されて、扉が開いた。
その音でようやく気づいたらしい彼は、顔を上げた。そのときランニングハイならぬワーキングハイが切れてしまった。ずっと同じ姿勢で書類を見続けていたせいか、あちこちバキバキだ。彼はむっとして言った。
「誰だ?」
「わたしです。ノックは何度もしましたからね」
間髪容れずに返したのは、マーシャだった。彼女は部屋に入るや否や、マルスの机上に書類がうず高く積まれているのを見て、深々と溜息をついた。
「全く……あなたって人は……。もう真夜中ですよ。お仕事が忙しいのはわかりますけど、もう寝るべきです」
ガタンと何かが落ちる音がした。マーシャがその方向へと目線を向けると、彼が椅子から落ちていた。驚きに目を丸くして、彼女は彼の元へと駆け寄った。
「ど、どうしたの? だ……大丈夫?」
彼は地面に尻餅をつくような形になっていた。マーシャを見上げながら口を開く。
「……マーシャ? どうして君が、こんなところに……」
「そんなの決まってるじゃないですか」
彼を助け起こしながらマーシャは微笑んだ。
「あなたに会いたかったから会いに来たんです。たまたま今はドナの街にお邪魔してますから」
そうか、とマルスは嬉しそうに微笑んだ。