この場所で
この場所で生きると決めた10年前の自分が
この街で10年生きた僕が、
この場所を去ると決めたと知ったら
きっとがっかりするかもしれない。
この場所にはたくさんの思い出がある。
いい事より悪い事が多過ぎて
笑いが出そうになってしまった。
思い出せない事がたくさんあって
思い出したくない事がありすぎて
それでもかつて輝く瞳は確かにここで生きると
希望に胸を躍らせ決めていたんだ。
10年前と同じ日の同じ時間。
同じような青空の下、始まりと終わりだけが違うがらんどうの部屋に別れを告げた。
永住の地はここではなかったが
いつかここが故郷だと
そう笑って言える場所に行きたい。
最低限の荷物だけを入れたスーツケースをガラガラと引いて新たな新天地に足を進めた。
花束
『次の職場でも頑張ってね』
笑顔で手を振られて去っていく人を見送るのがつらい。自分の時はまぁ、本当に散々な形になるだろう。とはいえ、ここに残るという選択肢は無いが。
用意された花束を見下ろして、ここに転職してしまった事を後悔した。
入ってすぐの違和感を信じて辞退するべきだったのだけど、過去に戻る事は出来ないし。
最善を選んできた筈なのに振り返れば後悔ばかりが浮かんだ。
お金が貯まれば溜まるほど捨てたものがある。
捨てたものがどんなものだったかはわからないが、それに希望を見出して後悔するのはとても傲慢であるとわかっている。わからないといけない。わからなければ、過去の自分の我慢に申し訳が立たない。被害者ぶれる程愚か者にはなりたくなかった。
『お疲れ様でした』
笑顔で見送る。あまり接点はありませんでしたが、それでもお世話になりました。心からの言葉を花束がわりに。
『今までありがとうございました』
返ってくる返事もまた当たり障りもなく笑顔で。
『その…』
言い淀まれた言葉になんだろうと下げた頭を上げて伺った。続く言葉がわかっていても。
『大変だと思いますが、頑張ってください』
ええ、私も知っています。
わかりやすいほどの酷すぎる嫌がらせを
みなさん公然と見殺しにしていましたものね
誰を責める内容でも無い。
わかっているからこそ答えなかった。
アイツが悪いとも私が悪いとも、誰が悪いとか何が悪いと言えるほど、プライドは低くなかったから。
ましてや貴方は『他人事だった』だけ。
責める事こそ烏滸がましい。
だからこそ、見捨てた事にカケラ程の罪悪感を持つ資格もない。言って忘れる内容ならば口にしなければ形にすらならないのに、人の弱さをそこに見出してしまう私の弱さを私自身が許せない。
ありがとうとも嫌ですとも選んだ上で返さずに曖昧に笑って誤魔化した。
私から貴方に満開に咲き誇る花束を。
どうか次の職場でも素敵なご活躍を。
私は私の弱さを形にしないで見送る事が貴方への祝福となる事を願って。
スマイル
笑顔とは最強の生存戦略である。
ムスッとするよりニコニコ笑って
明るく元気に仲良くする事で敵を作らない。
みんなに愛される優しくて素敵な
そんな誰からも求められるそんな勝ち組に。
って割とみんな本気で思ってたりするんだろうか。嘘でしょ。無理すぎる。なんでそんな他人に媚び売りながらじゃないと、生きていけないの?
他人軸で生きている事が評価されると思っててすり減らない?
嫌われる勇気、なんて言葉もある。
嫌われる事って『扱いづらい』って思われる事なんだろうなぁ。でも正直変な人も寄ってこない。
陰口言われるのは楽しくはないけど、陰口程度で仲良しごっこしてる人たちの輪に無理に入りたくて削る自分と天秤は釣り合うかな、なんて思ってしまった。
はー。
この世は常に事もなく。
比較って本当無駄に自分を削るよね。
誰かよりもしあわせとか
誰かよりもふしあわせとか
そんなくだらないもので笑いたくない。
楽しくて笑いたい。
嬉しくて笑いたい。
時には辛くても笑わないといけないけど、
それでもやっぱり幸せの為に笑いたい。
嫌いなものを我慢する為に笑うなんて
10回に1回あれば良い。
ムスーっと下がった口角を無理やりあげた
不自然な笑顔の不自然さがあまりにも『自分』だったから、これでこそ自分なんだよなぁと諦めひとつにトホホと笑って見せた。
どこにも書けないこと
言えないな。言いたいな。
切ないな、この気持ち。
王様の耳はロバの耳ってどんな話だったか子供の頃によく読み聞かせして貰った童話は記憶の彼方に遠い。
その代わり、壁に耳あり障子に目ありなんて諺ばかりが思い浮かんだ。
世知辛い世の中だな、とため息をつきながら形に出来ない想いを持て余す。
携帯を開いてポストしても何処で誰の目に入るかわからない。誰の耳に届いてもおかしくないから黙って口を閉ざした。
だから私の話を聞いてくれるのは主に日記になる。秘密を唯一知っている、私の為の私だけの友達。ペンを片手に薄暗い部屋で目の前のノートは黙って私の心を書き留めてくれた。
突如薄暗い部屋に強烈な振動が走った。
グラグラと揺れる様に大きな地震が起こったかと慌てて外に出ようとすると外から大きな悲鳴が聞こえる。
『隠れろ!』
『出てくるな!』
そんな声が大きな衝撃音に掻き消えた。
無我夢中で目の前のノートを掻き抱いて走り出す。その後ろで激しい閃光と爆発音が響いている。
足元に転がった本に割れたガラスが舞った。
大好きだった『アンネの日記』が
遠い世界からすぐそばの世界になるなんて
こんな事、何処に向かって書けば良いの
時計の針
カチリコチリと忙しなく動く細長い棒を指先一つで押し留める。
指先に伝わる振動に負けないように力を込めて押し留めた。
針を止めるなんてこんなに簡単なのに時間は漫然と、でも確実に進み続ける。大河のように、悠然と。
時が止まればいいのに。
消毒液の匂いが蔓延する小さな部屋の中の
小さな手。暖かさの通わない手を握ると幼い指先がピクリと動いた。
両手で温めるようにその小さな手を抱きしめると
、止められていた時間の針が、濁流に流されるように正しい時間を示す為に動き始めた。
時が止まればいいのに。
無常な現実が指先一つでは止められないとわかっていても。