二人だけの秘密
『絶対に内緒だよ。』
『もちろん。そっちこそだよ。』
『ゆびきりげんまん』
夕暮れが当たりをオレンジ色に染める頃、幼い子供のありきたりな口約束を視界の片隅に映した女はちいさく微笑んで目を伏せた。
『嘘ついたらハリセンボンのます』
勢いよく上下に振られる結ばれた小指同士に合わせて肩迄伸びた赤毛が揺れる。
ヒヨコの尾のように揺れる髪に懐かしい赤を思い出した。
『必ず帰って来るよ』
優しく、何処か寂しげな瞳は力強い肯定とは違う未来を見据えていたのだろう。
首を傾げると鮮やかな夕焼け色の赤毛が揺れて、
そこから先は何も言えずに小指を握りしめた。
何処かで知っていた。
認める事ができなかった。
認めてしまえば終わってしまうものに
縋りついていたかった。
あの時指切りくらいはしておけばよかった。
そうすれば小指と小指の間に繋がる糸が
わずかな未来を手繰り寄せてくれたかもしれないのに。
『指切った!また明日ね!』
元気よく手を振って東と西に分かれていく。
そんな子供たちを見送りながらも立ち尽くす。
沈んでいく夕日に向かって思わず手を伸ばすと水平線のその先にある境界に沿って小指からオレンジの糸が続くように見えた。
赤にも満たないその運命の糸を恋しく思う。
貴方が好きだと気づいた時に、素直になれたら違う未来があったのだろうか。
長く伸びた影が夜の海にしずむまで
女は静かに空を見上げ続けた。
終わった!
生きる意味
『俺、死にたくないって思えるのが嬉しいんだ』
こんな事、お前にしか言えないし。
ふと漏らした甘えが相手を苛立たせるとわかっていても言わずにはいられなかったのは俺自身が甘えたかったのかも知れない。
唐突に脳がぐらりとして頭痛が始まる。
アイツと回線が繋がる合図を待っていた俺としてはやっと来たチャンスを逃すまいと皆と離れた場所でアイツに話しかける。
話しかける、でいいのかな。
脳に直接語りかけて来るこのアイツと俺とだけの回線は完全同位体である証左であるとともに、アイツが本物で俺が偽物であるという逃れられない証左でもあった。
『何のつもりだ。』
予想通りのイライラとした声に俺は少し嬉しくなる。
昔のコイツならもうこの時点で返事もせずに回線を切っていただろう。
レムの塔を経てお前、少し丸くなったんじゃないの?流石にそれを言葉にしたら切られてしまうか。ニヤニヤ笑う顔が見えるわけでもないだろうに何がおかしい、とさらに苛立った声が続く。
せっかく話を聞いてくれる気があるらしいこのチャンスだ。
俺は少しだけ限りある時間を貰うことにした。
『俺さ、ずっと命の使い道を考えてたんだ。俺はレプリカでお前から多くのものを奪ってきた。』
いつかお前に返す時まで。
望まれて生まれてきたわけではない俺の存在は
多くの物を狂わせた。
俺が奪った多くのものが、お前を苦しめた事を知っている。
俺が奪ってしまった多くの命が紡ぐはずだった未来を知っている。
知るほど怖くなった。
怖くて怖くて仕方なくて。
『だから、俺の命はちゃんと使われるべきだと思ってたんだ。簡単に死ぬだけじゃ贖えないからさ。』
死ねと言われて償えと言われた。
返せと言われた。
洗っても取れない赤に染まった両手の罪深さに震えた。
取り返しがつかない物は後悔しても元に戻せる事がない。
『やっと死ねると思った時にお前が邪魔しに来てどうしてって思ったよ。』
命の使い道を見つけた時ホッとしたんだ。
怖かったけど。
辛かったけど。
それでも一番ホッとして、そんな自分をさらに嫌いになった。
それでも終われる気がした。
レプリカと人。命が決して等価ではなくても。
『でもさ、生きてて。
まだもう少しだけ生きられる事が涙が出るくらい嬉しかったんだ。』
残された時間が限りある程に生きている事を実感する。
死ぬ事が怖い。
終わる事が怖い。
二度と会えない別れが辛い。
でもだからこそわかる。
出会ってきた全てへの愛しさが。
お前のおかげだよ。
助けてくれてありがとう。
心からの感謝を込めた言葉に返ってきたのは想像していなかった心の底からの怒りだった。
『ふざけるな。』
久しぶりに聞いた地獄の釜の底を覗き見るような低い声はフォンスロット越しでもわかるほどに煮えたぎる怒りを伝えて来る
『ふざけるなよ、屑が!』
えぇ…?
音ではないはずなのに耳を塞ぐ。
狼狽する俺を置き去りに伝わって来る怒りはどんどんエスカレートしていった。回線が繋がってよりわかるけどお前、ちょっと導火線短かすぎない?
『死ぬ事が嬉しいだと?!もう少しだけだと?ふざけるな!
俺がどんな思いで…!クソ!馬鹿め!
だからお前はレプリカなんだよ!』
盛大な舌打ちが聞こえるような気がしたが、吐き捨てるように言われた流れるような罵倒にこちらもカチンとする。怒られるような内容ではないじゃないか。なんでいつもそうやって怒るんだよ。
『馬鹿馬鹿って。お前それしか言えないのかよ。
俺だってお前にちゃんと伝えたくて…』
『それが馬鹿だと言ってるんだよ、馬鹿が!』
取りつく島もない様子にこちらもイラ立つが、喧嘩がしたいわけじゃない。だって時間がないんだ。明日もし音素が解けて死んだらちゃんと伝えられないじゃないか。いずれ全てをお前に返す事になったとしても、この気持ちはお前にも返せない。これは俺だけのものなのだから。
『ごめん、変な事いって悪かった』
『…もう終わりなら切る』
プツリとと切られたと同時にじんわりとした痛みも治る。
この痛みが繋がってる証だと思えば
それもまた生きているという証のように思えた。
『アッシュさん。』
ゆっくりと目を開けると心なしか少し焦ったような顔が映る。
『あぁ、寝ていたか。すまん。』
『いえ、大丈夫ですか?』
うたた寝をしていたらしいコックピットの中では
こちらを伺い覗き込むような瞳たちが見える。
そこに映る心配の色にこそばゆくなるのを隠した。
不甲斐ない。
立ち上がろうとしたところバランスを崩した肩を支えられる。
『すまない、ギンジ』
『構いません。次はどうしますか?』
操縦桿を再度握りながらこちらを見上げる目を見返して頷いた。
『ワイヨン鏡窟へ。』
ワイヨン鏡窟にディストがいる。
奴は人格はともかく能力だけならばあのネクロマンサーにも引けは取らないだろう。レプリカ研究に関してに至っては下手をすれば右に並ぶものがいるかわからない。
脳裏によぎる諦めたような声に苛立ちを覚えては舌打ちをする。
勝手に諦めたような事を。
そんな事はあってはならない。
あってたまるか。
何が返すだ。ふざけるな。
お前のものなんか俺が必要とすると思うのか。
力を込めすぎた拳に爪が食い込むと
そこから赤い血が滲み出る。
両手を染めたその赤こそが
皮肉にも確かに互いを繋ぎ止めるものであるように見えて
忌々しげに振り払えば床には足跡のように飛び散った。
今日の心模様
『あーしんどい』
五月晴れに相応しくない湿度の高い気持ちの重さにうんざりとした気持ちで歩く。
仕事を辞めたいな。
書き途中の履歴書の中の自己PR欄が白紙のまま止まってる事を思い出すとさらに湿度が高くなった様に感じた。
カラリと晴れた心で働きたい。
理由も解決策もわかっていて先に進めないのは
自信というものが干からびた道を歩いているからだろうか。
言いたい事も山程あるのをぐっと黙って耐える日々は周りを増長させたのか、それともそれを受け入れきれない自分から何かを捨てさせたのかわからない。
ただただ、生き辛さばかりが胸に積もった。
泣いてばかりいた日々もいつまでだったかな。
随分と泣いていたばかりだったはずなのにね。
苦笑するしかない。
もはやどんなに理不尽だと思っても疲れ果てるばかりだった。ここから逃げ出したら生き直せるかしら。
結局自分で選んだものなのだから捨てる事も自分でしか出来ない。しがらみを捨てる痛みと未来を掴む勇気は勝算の見えない賭けでしかない。わかっているからこそ、この賭けに踏み出す勇気が足りない。
他人のわがままに振り回されるのも嫌だ。
思い通りにいかない仕事もいやだ。
悪く言われる事もいやだし、
黙っていることで理不尽なら言いがかりが本物になるのも、それを信じる人間にも囲まれたくない。
嫌だ嫌だと思っていても我慢してるだけではダメだとわかっていて、尚動く勇気の為の自信が枯れ果てている。
あーしんどい。
本当にしんどい。
真っ当に生きたいと願う事がこんなにも生き辛さを連れてくるとは。
早くここから逃げ出さないと。
これから梅雨がやってきて、この枯れた道に自信という潤いがくるのにどうやって生きたらいいのか。
空を見上げても答えなんかあるわけないのに
どうしても空を見上げることをやめられなかった
神様へ
『ほら神様が見てるよ』
鳥居に向かって指を指すその先、境内の向こうその先にある社には天神様がいらっしゃる。
祖母は深々と頭を下げ、を手を合わせては何処にも見えない『神様』に日々の感謝を伝える。
その尊さは、私が祖母の年齢を超えた今になってわかるようになった。
かつての自分と同じ年の孫は不思議そうに境内を歩く。キョロキョロとしながら社の前に立つ小さな手を自分の皺が刻み込まれた手で包み込んだ。
『ほら、神様にお願いしようね』
最近関節が少し痛む膝を気にしながら屈むとキョトンとした大きな瞳が困ったような色をした。
『お婆ちゃん、神様は何処にいるの?』
幼児らしい困惑に懐かしさと愛おしさが胸を焦がす。祖母もまた、当時はそう思ったかもしれない。思っていたらいいと思う。
『神様はね、目に見えないけれどちゃんと心の中に居るんだよ。』
『そうなの』
『神様は目に見えないからこうやって目を閉じるの。』
二礼一拍
立ち上がって見本を見せるとおずおずと小さな手が真似をする。
『そうするとね、心の中に大切な人が見えるでしょう。神様がその人の姿を借りて見にきてくれるんだよ。だからその人にありがとうって伝えようね』
深々と頭を下げてみせる。
孫はこちらを見ると意気揚々と頭を下げた。
『神様ありがとうございました!』
その姿に自分はもちろん、後ろに並んだ人たちもが笑顔になった。
帰り道、手を繋いで境内を出る。
嬉しそうにブンブンと小さな手が振られている。
懐かしさが胸に満ちては、戻らない時間を愛しさと違う痛みが宿った。
『そういえば神様は何で言っていた?』
祖母は私によくそう言った。
懐かしい日々を重ねたただの気まぐれにすぎない。祖母と同じように⛩️の先の社を指差す。
孫は小さな手を大きく掲げて手を振った。
まるで社の向こうに誰かいるかのように。
そして笑ってこう言った。
『またおいでね。いつも見てるよって』
ばあちゃんに似たお婆ちゃんだったよ。
幼い目に誰が映ったのかはわからない。
けれど鳥居の向こうのその先に
優しく微笑みながら立つ祖母の姿が見えた気がして私は社に向かって感謝を込めて深々と頭を下げた
遠くの空へ
昔ギリシャのイカロスは蝋で固めた鳥の羽を
両手に持って飛び立った。
空を駆け地を発ち羽を広げて
青い青い大空に抱かれ
太陽に焦がれて地に落ちたという。
飛行機という文明がもたらした偉大な交通手段は
遠い地と今を簡単に繋ぐようになった。
今では当たり前のように海の外の世界に行ける。
物理的に簡単になったというのに
逆に精神的に海外という世界は遠くなった。
インターネットがあればより簡単に海外と
繋がれる。バーチャル世界の発展がこれからの新しい世界の領域だと、数年前には言っていたような気がするがまだまだそこ迄至るには時間が必要みたいだ。
イカロスほどの熱量がない私にはGoogle Earthで知った気になる卓上旅行で充分だけど、いつか遠くの空の、あの美しいオーロラを見てみたい。
私の世界が終わるまでに
戻らない時を無碍に過ごすのは勿体無いかな。
そんな感じのことを思った昼下がり。
もう4月とか…