僕は今日も海へ向かう。
「よう、今日も来たのか」
いつも釣りをしているおじさんがいる。釣り糸をキラキラ光る海の中へと垂らし、じーっとしながら僕を目だけで追った。僕はおじさんの後ろに置いてある、クーラーボックスの中を覗いた。
「悪いな、今日は不調だ」
クーラーボックスの中は空っぽだった。
仕方なく、おじさんの隣に座り、釣り糸の先を目で追う。おじさんは釣り竿を持っていない手で、僕の頭を撫でた。
「何も釣れずに帰ったら、嫁に小言言われちまう。何か釣りてぇよな」
おじさんはずーっと、海と向き合っている。
時々釣り竿を寄せて餌を付け替えては、また海へと糸を垂らす。僕はいつも近くで座っているだけだけど、おじさんの話す声や僕を撫でてくれる手が優しいから居心地が良かった。
「釣れねぇなぁー…これでも食べるか?」
おじさんは鞄からかつお節を出して、地面に置いた。
鼻にいい匂いが届く。これはとても美味しい。
「…これが今年最後の釣りだったんだよ、何にも釣れなかったなぁ」
おじさんは弱々しい声でつぶやいた。
「おい、野良猫。俺は明日から入院するんだ!検査入院だが、長引く可能性もあってな。釣りもしばらく来れねぇよ。もう魚をねだりに来てもやれねぇから…自分で餌を探せよ」
入院がよく分からなかったけど、あまり良くないことなのはおじさんの表情から分かった。
「にゃお…」
「またな、野良猫」
その日は結局、何も釣れずに、おじさんはてんこ盛りのかつお節を残して帰っていった。
翌日も、その翌日も、僕は海へと向かう。
何回海へと足を運んでもおじさんは来なかった。
「それで?サヤカと喧嘩しちゃったの?」
「そうなんだ。どうにか仲直りしたくてさ。カホはサヤカの親友だし、どうして怒ってるのか知らないかなと思って!」
放課後の図書室。ささやくような声で、ショウタはカホに話しかけてくる。カホは「ん〜」と窓の外を見る。
ポツ、ポツと窓へ雨が当たり音を立てている。
実は昨日の夜、サヤカから電話があった。ショウタは誰にでも優しい。老若男女構わず、誰にだって優しい。体調が優れなかったサヤカは、その優しさを自分だけに向けて欲しかったのだろう。ついつい言い過ぎたと、反省していた。
毎回両者から聞かされる惚気と愚痴に、カホは嫌気が差していた。つまらない、しんどい。ふたりで正直に話し合えば済む話なのに…。
「サヤカには、聞いてみたの??」
「聞いたけど、無視だった…」
「……」
中学から仲良くなり、親友だと言ってくれるサヤカ。
幼馴染で、保育園から一緒のショウタ。
どちらも大切、幸せになって欲しい…でも。
「今回は、私 何も言わないよ」
「え?」
再び窓の外へ目を向ける。雨足は早くなり、本降りになりそうだ。読んでいた本を閉じ、カホは椅子から立ち上がった。
「そろそろサヤカが出てる委員会終わるんじゃない?迎えに行って、直接話しなよ」
「カホ…怒ってるの?」
「……怒ってないよ。呆れてるの…」
そう、呆れている。ふたりにも、自分にも。
「素直に全部、話しちゃったら楽なのにねって」
捨てられた子犬みたいな目でカホを見るショウタを置いて、図書室を後にした。
ザーッと雨が窓を叩きつける音がする。
まるで、カホの心の中を表しているみたいで笑えた。
靴を履き替え、水色の傘を開く。
カホは一度も振り返ることなく、早足で学校を出た。
今日の夜は、サヤカから電話が来るだろう。きっと、ふたりは仲直りする。
ふたりとも大切、幸せになって欲しい。
だから、私は一生ふたりには正直に言わない。
この涙は雨に紛れて溶けてしまうから、雨が止んだらきっと虹がかかるはず。
カホのつぶやきは、誰にも届くことなく雨に流されて消えた。
「馬鹿じゃないの。私もショウタが好きなんて…早く諦められたら良いのに…いつまでたっても諦められない…自分に呆れちゃう…」
「わぁ!あなたはだれ?」
しとしとと降る雨の中、アオイは立ち止まる。
青や紫の色鮮やかな紫陽花の花が、しゃがんだアオイを見下ろしていた。
「こっちに、おいで!」
「アオイ?誰と話しているの?」
「ママ!この子だよ、小さいの」
アオイが小さな指で指した先には、茶色く汚れた子犬が一匹。捨て犬だろうか?それとも、迷子だろうか?
「わんちゃーん」
アオイの呼びかけに、子犬は小さく返事をした。
「この子、ひとりぼっちなのかな??」
キョロキョロと周囲を見渡して見るが、他に子犬の家族らしき子や、捨てられた形跡も見当たらない。
「そうみたいだね…今日は夜から雷雨になるって言ってたよ。」
「らいう?」
「雨と雷がたくさん降るんだよ」
「この子、おうちはないの?カミナリ、こわいよ」
「そうだね…でも、家でも飼えないしなぁ…でも、見つけちゃったら放おってもおけないね…」
「ママ、一緒におうちへ帰ろうよ」
「…ひと晩だけなら、泊めてあげられるけど…その後はどうしよう」
頭の中で、近所の動物病院を必死で探した。そうこうしている内に、雨足は早くなる。
パタタ、パタタタ
薄紫の傘に当たる雨の音が大きくなった。
「猫が居るから家では飼えないけれど、連れて帰るからには、なんとか幸せにしてあげようね」
「うん!!」
雨に濡れ、土がこびりついて、柔らかいはずのその毛は硬くなっていた。手を取ったからには付いてくる、重い責任がずしりと腕で震えていた。
「アオイもだっこする」
「帰って洗ってあげてからね!…雨強くなってきたから、走るよ!もうすぐ家に着くからー!」
ピンクの恐竜かっぱを着たアオイは、雨の中を跳ねるように走る。小さな長靴で、水たまりの地面を蹴って。
梅雨はまだ、始まったばかり。