Y.Tone

Open App
2/25/2026, 7:48:43 AM

大学生の息子が久しぶりに帰ってきた。
「オレでも作れるレシピ教えて。あと、道具を一緒に探してよ」
最近、自炊を始めたらしい。

レシピなんてスマホで簡単に探せるだろうに、母を気にかけて、わざわざ来てくれたということだろうか。
目的地までお互いの近況報告を話しながら、さりげなく車道側を歩く息子。
すっかり、いいオトコ予備軍になったものだ。

ふと、手にしている鞄が目に入る。
使いやすそうなオリーブ色の鞄に、小さな赤いマークが付いている。
気になって、思わず鞄に顔を近づけてしまい、「ん?どうした?」と上のほうから息子の声が飛んでくる。
「ごめんごめん、見えなかったもんだから、つい」という答えにも全く気にしない様子で、鞄が見やすくなるように、大袈裟に身体ごとこちらに向けて見せてくれた。

「あっ、テントウムシ。テントウムシのバッジなんだね」
オリーブ色の帆布の鞄に赤いワンポイントが効いている。

「このトートバッグ、カーキね。オリーブ色じゃなくて」
褒めたら何故かトートバッグの色を訂正された。
「うるさいなあ、一丁前にオシャレ気取っちゃってさ」とわざと拗ねたフリをしてみたら、「いい歳の大人が何してんの」なんて、笑いながら軽くいなされた。

「最初はさ、コンビニ弁当でいいやと思ってたんだけど、食費がヤバくて。で、作ってみたら、案外楽しくてさ」
そう話す息子は、やはりどこか顔つきが変わってきた。

今日は息子のリクエストで、カレーライスを作ってあげることになった。
残ったカレーを持ち帰る気満々の息子は、2人分にしては多めの食材を買うついでに、鍋とおたまをしっかりと購入していた。

家に帰る道すがら、他愛もない母のお喋りに相槌をしていた息子がテントウムシの話をし始めた。

「オレのラッキーモチーフはテントウムシなんだよね」
母の知らない息子の一面が急に出てきた。

「初めてテントウムシに触ったたき、幼稚園くらいだったかな。自分より小さな命にどう触れればいいのか分からなくて、母さんから見たらたぶん、潰してしまいそうな感じだったと思うんだよね。そしたらさ……」
そう話して、自分の左手を指をそっと伸ばして、優しい視線を私に向ける。

「『テントウムシさんはね、幸せを運んでくれるムシさんなんだよ』って教えてくれたんだよね。覚えてる?」

……思い出した。
息子の指に止まったテントウムシを私の指にそっと乗せて、二人で見守っていたら、小さな羽をぱぁっと広げて、空高く飛んでいった。

「あのときから、テントウムシを見ると、なんか幸せな気分になるんだよね」

ゴソゴソとポケットから小さな袋を取り出した。
「さっき、似たようなバッチを見つけたから」
差し出された袋の中から、小さな赤いテントウムシが顔を出した。

【小さな命】

2/24/2026, 8:43:18 AM

「なんで、結婚記念日の当日に飲み会?」
美味しいものでも食べようと前々から約束していたのに、あろうことか夫はドタキャンした。

「お世話になってる上司が結婚するって聞いて、お祝いだったんだよ」
「結婚はめでたいけど、私たちの結婚記念日のほうが先約でしょ。しかもその人、結婚するの2回目じゃんっ!」

前にも、仕事のトラブルとか言って、クリスマスデートの約束を破られたことがあった。
そのときは、トラブルだったこともあり、用意してくれていたプレゼントに免じて許してあげた。
しかし今回はブチキレた。プレゼントくらいじゃ許さない。
表に出てくる愛情が足りてないってことを思い知らせてやる。

翌朝、仕事へと向かう夫に「いってらっしゃい」と投げキッスをしてみた。
突然の事態にうまく反応ができなかったようで、ぎょっとした顔を浮かべ、「ぃってきます」の言葉を残して、逃げるように出かけていった。
別の日には、アイドルの子みたいに、両手や指で作ったハートを付けて「いってらっしゃい」と言ってみたが、「あ、うん、いってきます」と受け取るだけにとどまった。

想っているだけじゃ伝わらないんだぞ!とは思うが、夫は不器用で典型的な照れ屋だ。
それならば、簡単でライトなサインにしてみよう。

右手の親指と人差し指で「L」の文字を作り、「いってらっしゃい〜、Love you〜」と手を振る仕草を添えて送り出した。

「…いってきます……」
ドアの外に踏み出しかけた足を止めて、伏し目がちに振り向いた。
そしてもう一度「いってきますっ」と声に出して、夫は一歩踏み出していった。
ドアが閉じようとするその隙間から、「L」の文字を作る右手がちらりと見えた。

【Love you】

2/23/2026, 4:57:53 AM

祖母は太陽のような人だ。
いつも目を細めてニッコリと微笑んでいる。

両親が共働きで、学校から真っ先に帰る場所は、
近所に住む祖母の家だった。

小学生のころは、今日の出来事を一つ残らず話したくて、
祖母のところへ走って帰っていた。
どんな話にもニコニコと聞いてくれるのがうれしかった。

中学は運動部に所属したせいで、いつも腹ペコ状態。
よく食べる祖母と二人して、たくさんの焼肉を平らげた。

高校生になると、同級生との関わり方や勉強のストレスから
祖母と会話する余裕のない日が増えていた。

ある日、学校の友達とケンカしてイライラのまま帰宅した。
家に着いた瞬間、祖母の家に立ち寄ると約束していたことを思い出し、
忘れていた自分に苛立ちながら、祖母に会いに行ってしまった。

いつものようにニッコリと微笑み、迎え入れてくれただけなのに、何故かどうしても素直に受け取れずに
「そういうの、大キライ」と言葉にしていた。
放たれた自分の言葉に自分で驚き、その場から逃げ出していた。

次の日の朝、食べることが大好きな祖母のために、
ホットケーキミックスを使ってレモンケーキを作った。
「昨日はごめんなさい。ケーキ作ったから一緒に食べよう」
いつものようにニッコリと微笑んで迎え入れてくれた。
そして、最近の祖母は、レザークラフトに興味があって、
図書館の本で調べているという初耳な話を聞きながら、
一緒にレモンケーキを食べた。

大学生になった今、祖母の話が聞きたくて、なるべく会いに行くようにしている。
たぶん私が少しだけ大人になり、ちゃんと話を聞くことができるようになったのかなと思う。

「喜怒哀楽は、多ければ多いほど心を豊かにしてくれるの。
毎日何かを発見できる喜び、
おじいさんと喧嘩したときの怒り、
好きな人に嫌いと言われたときの哀しみ、
美味しいものを一緒に食べる楽しさ……
喜怒哀楽がなかったら、平坦すぎて面白くないわ」

そう話しながら私の手を握ってポンポンポンと撫でる。

「それにね、喜怒哀楽はね、皺になって刻まれていくの。
あなたのこの手も顔も、たくさんの皺が増えていくわよ。
だけどそれは日々が豊かであるということなの。
嫌なことも皺になるだけよ」

目を細めて、いつも以上に小さな皺を目尻に集めて、
ニッコリと微笑む。
私は祖母の柔らかな手をそっと包み、ちょっと言い返す。

「嫌なことはイヤだなあ。それに、もう少しツヤツヤな手のままでいさせてよ」

二人で顔をクシャクシャにしながら、笑い合った。

【太陽のような】

2/22/2026, 9:02:22 AM

「よーい、スタートっ」
右手の中にいるストップウォッチが「00:00:00」から勢いよくカウントを始める。
200mのインターバルをこなす後輩たちを交互に見ながら、久しぶりのこの感覚がとても心地よかった。

「アイツのペースはどう?」
走る部員たちにゲキを飛ばしながら、
マネージャー補佐に入っている私に声をかけてくる。

「いい感じですよ、主将」
「マネージャー、オレは部活引退しているんだから、もう主将じゃないよ」
「私も引退しているから、マネージャーじゃないよ、主将」
近くでストレッチをしている部員たちが、アハハと笑う。
その声は温かさを含み、向けられた視線は安堵を纏わせている。
その向けられた先にいる当事者は今、何を思っているのだろうか。
すると、知ってか知らずか、決意とも取れる言葉をそっと呟いた。

「時計修理技能士の試験を目指そうと思っている」

春が訪れようとしていたころ、大きな怪我を負った主将は、高校最後の大会に出ることが叶わず、そのまま、彼の陸上競技人生も幕を閉じた。
情熱を注いでいた陸上を失い、彼は進学そのものを諦めかけていた。

マネージャーとして何をしてあげればよかったのか分からぬまま、悶々と過ごしていた夏休みのある日、
日本人が世界的な時計のグランプリを受賞したという記事を見つけた。

「腕時計とか結構好きでさ。社会人になって給料をもらったら、いい腕時計を買いたいんだよね」
彼とのそんな会話を思い出し、1名分で予約した時計づくり体験に半ば無理やりに連れ出した。

気が紛れるなら何でもよかった。
だけど、まさかこれほどまでに手先の器用さを見せつけられることになるとは思いもしなかった。
職人の方が話す工程を真剣に聞きながら、1つ1つ慎重に組み立てていく姿からは、彼本来の真面目さが滲み出ていた。

小さなネジを留め終えると、大げさに息をふーっと吐き出した。
「小さいとき、家にあるラジオを分解しかけて、めっちゃ怒られたことを思い出した」
そう話す口角はうれしいほどに上がっていた。
組み立てた腕時計は、料金を立て替えたという理由で、私が受け取ることになった。

あれから彼なりに調べて、悩んで、そして覚悟を決めたその目は、新しい未来へとしっかりと向かっていた。
時計職人になるためには、国家試験である時計修理技能士の資格が必要で、春になったら、県外の専門学校へ進学して本格的な勉強を始めるつもりらしい。

あの日もらった腕時計は、休日限定で大事に使っていることを彼は知らない。
私は教えないと心に決めている。
これが、まっさらな挑戦に立ち向かう彼への、私なりのエールだと思うから。

【0からの】

2/21/2026, 5:37:10 AM

今日は金曜日。
終業予定時間から15分が過ぎたが、今日中に入力を終わらせておきたいファイルがまだ残っている。

少々古い入力システムを使っているせいで、
要所要所に自分で保存ボタンを押さなければならない。
そのマニュアルを遵守しなかった後輩は
午後の作業が水の泡になっただけでなく、
苦手な上司からキツく注意を受けるハメになった。

同情はしない。でも、入力作業は引き受ける。
分担して作業したほうが早いでしょ、と言ったら
後輩は涙目になっていた。

本当は定時で上がるつもりだったが、予定通りには進んでくれないものだ。
飲み物がなくなりかけていたので、
カフェインレスのコーヒースティックを1本持って、給湯室に向かう。
コーヒーをひと口、少しだけホッとする。
あとどのくらいで終わるだろうか。
デスクに戻ると、同期が取引先との打ち合わせから帰ってきていた。

「あれ?直帰じゃなかったの?」
「出し忘れてた資料を思い出してさ。それより、見てこれ」

こそこそしながら、パソコンの画面を指差してくるので、
マグカップを持ったまま、画面を見る。
そこには「同情」と表示されていた。
驚いて同期の顔を見ると、小さくニヤリと笑う。

「簡易資料ならさ、上の行と同じ内容だったら…」
「上と同じの、同上ね」
「そうそう、そのつもりで変換したら、一番最初にこれが出てきた。すごくない?今のこの状況で」

いや、普通は笑えないだろう。
でも、この状況を知って戻ってきたということらしい。
しばらくして、後輩のデスクに向かった同期は、
未入力のファイルを受け取り、
結局全部終わるまで一緒に作業をしてくれた。

「今日はすみませんでした!本当に、先輩方ありがとうございました!」
使っている駅が違う後輩とは会社の前で別れて、同期と駅まで歩いていた。

「同情したから、手伝いに戻ってきたの?」
「ミスをした子には同情したかな。ミスはダメだけど、
今の時代、システムでカバーできることも多いのに、
この環境に置かれてしまったことは同情に値する」
「うちのシステム、化石だからね」
「それに、後輩のミスをカバーするのもオレたち先輩の役割だろ。だから、同期に対しては、同情じゃなくて共鳴かな」
また、ニヤリと笑っている。
ちょっと、ムカつく。だけど、肩の力が抜けた。

「なんか、お腹が空いたあ」
「お、じゃあ、駅前でラーメンでも食う?」
「ラーメンって気分じゃないなあ。マッハで働いたあとだから、せめて食事くらいはゆっくりしたいよ」

いい同期を持っていると知ることのできた金曜日。
さっきまでとは明らかに違う、清々しい気分に変わっていた。

【同情】

Next