リビングの一角を手形アート会場に変えてみた。
ダンナが娘を外へ連れ出してくれた時間を利用して、
折りたたみの机に白い大きな模造紙を敷き、
色とりどりのスタンプ台と、用意できるだけの画用紙を広げる。
「公園に行ってきたぁ」と元気よく娘が帰ってくるや否や、
一目散に机に向かって駆け出し、スタンプ台を取ろうとする。
なんとか制止に成功して、うがい手洗いをさせてから解放すると、そこからはもう大騒ぎだった。
スタンプ台で色を付けたその手をペタペタと押しまくり、
押した手形に顔を書き込んでいたかと思えば、
今度は黄色とオレンジの色を混ぜ始める。
どうやら、さっきの公園で見つけた枯葉をヒントにしているらしい。
押すたびに少しずつ、黄色やオレンジの出方が変わり、
納得いくまで、小さな手形を押しまくっていた。
だから今、リビングのあちこちに手形の葉っぱが愛おしく散らばっている。
「やっと寝てくれたよ」
その夜、興奮が冷めない娘をなんとか寝かしつけ、リビングに戻ってくると、
さっきまで手形アート会場だった机に向かうダンナの姿があった。
「相当気に入ったんだね、大成功じゃん」
振り向いたその手には、娘の手形アートがあった。
机の上には、絵の具やパレットが並んでいて、
娘の手形で描かれた綺麗な枯葉を囲むように、
淡くて優しい色合いの花がたくさん描き込まれていた。
「すごい、素敵だね」
「絵の具で絵を描くなんて、卒業して以来だよ」
どうやら、夢中になっている娘を見て、
制作意欲が刺激されたみたいだった。
「せっかくだから、何か書いてよ」
ダンナのようには上手く絵は描けないけど、
この絵に合うクレヨンを一色選び、
娘の名前と日付を丁寧に書き入れる。
この絵のタイトルは「枯葉が春を連れてくる」って感じかな。
ふたりでそんな話をしながら、朝が来るのがとても待ち遠しかった。
【枯葉】
待ち時間90分。
楽しみにしていたアトラクションは、行列だった。
気にせず列に並んだら、2単語しりとりが急に始まり、それからずっと小声でバトル中だ。
「期末テストに出てきた連立方程式」の「き」!はい、どうぞ!
ちょっとぉ、オレの期末の数学、破滅的だったこと知ってるでしょ?しかも、また「き」だし。
2単語を使った言葉のしりとりのはずが、いつの間にか、単語数のカウントは曖昧になっている。
「き」から始まる、カッコいい言葉が出てこねぇ。そうだ!「キョウにさよなら」ってどう?
京?都を去るサムライ、みたいな?
違う違う!Todayの今日!「今日にさよなら」って、なんかカッコよくね?
えー、そうかな?
気がつけば、私たちの乗車する順番になっていた。
「お二人様ですね。では、1番からお乗りください」
こういう絶叫系のアトラクション、私は意外と平気だ。
しかし、となりはどうだ?
いよいよ順番が回ってきたというのに、となりは急に黙り込む。
もしかしてだけど、ビビってたりする?
走り出す直前に顔を覗き込んで尋ねてみる。
あー、実はちょっとビビってる。
一瞬、視線を外されたが、すぐさま観念した笑顔でこっちを見てきた。
そっか、バレてるかー、そっかー、うわ、動き出した、
イヤだなー、チクショー、今日のオレはここまでかー、
あー、さよならー、今日にさよならーっ、ぐわーーー!!!!!!
アトラクションに乗っている間、私はずっと大笑いしていた。
たぶん降りる瞬間、態勢を立て直すつもりで、カッコよく手を差し伸べてくるだろう。
だから私はその手をとって、「来月もまた来ようね」次は「ね」!って、しりとりを続けてやるんだ。
しりとりの続きだって気がつくかな。
そんなことを考えていたら、なんだか可笑しくて、必死に耐えている横顔を見ながら、ずっと大きく笑っていた。
【今日にさよなら】
ヤバい、ヤバいっ、
きっと、これは私のお気に入りになる。
遡ること、数ヶ月前。
あまりの忙しさに発狂しかけたとき、
ここを乗り越えたらご褒美を買う!
そう言って、自分と約束をした。
怒涛の忙しさを抜け、ようやく仕事に一段落ついたころ、
向かった先は、ご褒美と決めていたジュエリーリフォーム。
年齢を重ねると自然とシワが増えていき、だんだんと似合うものが変わってくる。
環境が変われば選ぶものも変わり、10代や20代のころに選んだアクセサリーは今は身に着けることがなくなった。
学生のときにアルバイト代で買った小さなピアス。
初出社のときに着けていたお守り代わりのピンキーリング。
一目惚れした誕生石の付いた一粒ネックレス……
お気に入りだった、と過去形にして終わらせるのは、何だか違う気がした。
そんなときに出会ったのが、ジュエリーリフォームだった。
歴代の私が集めてきたお気に入りたちをまとめて職人さんに託した。
このコたちで指輪を作ってください!
そして完成した指輪が今、右手の薬指に鎮座している。
右手をかざすと、地金に埋め込まれた小さな石がさりげなくキラリと輝く。
お気に入りのアベンジャーズや。
終始、ニヤけているのが自分でもわかる。
アベンジャーズって、
ダメだ、語彙力が崩壊している。
苦笑いを誤魔化したくて、思わず両手で顔を隠す。
次の瞬間、また右手をかざし、ニヤニヤしてしまう。
もっと仕事頑張らなくっちゃ。
そっと指輪を撫でながら帰路につく足取りは、とても軽やかだった。
【お気に入り】
きっと、永遠の片思い。
出会えた瞬間から、分かっていたんだ。
キミをシアワセにできるのはボクじゃない。
だけどボクは、誰よりもキミのシアワセを願っている。
これは強がりなんかじゃない。
だって、ほんの一瞬、
ボクに微笑んでくれるだけで、
その手がボクの小指に触れるだけで、
ボクの心の中はこんなにも温かく満たされる。
だから、
誰よりも誰よりも、
キミがシアワセになることを願っている。
どうでもいいが、さっきから、
となりで最愛の人が笑っている。
ケタケタと笑っている。
いいさ、笑えばいいさ。
誰よりも我が娘の幸せを願う一途なパパたちの
よく聞く話だねって、笑えばいいさ。
【誰よりも】
「今日のラジオテーマは、
『10年後の私から届いた手紙』です。
さっき、放送が始まる前の打ち合わせで、
スタッフとも話していたんだけど、
どうした今日のラジオテーマ、
急にファンタジー?って感じだよね。
え、私の場合?
うーん、そもそも、10年後の私から手紙が届いたとしても信じないかな。
これってさ、少し違う言い方をすると、
今の私が10年前の私に宛てて手紙を書くってことだよね。
たぶん、10年前の私も信じないと思う。
だから、そうだな、もし手紙を書くとしたら、
10年後の私から、ということは隠すかな。
私じゃない、他の誰かの言葉の方が
心に届く場合もあるから。
どんなことを手紙に書くのかって?
うーん、そうだね、、うん。
焦らなくても大丈夫ってことは伝えたいかな。
悩んで、苦しくて、立ち止まったとしても大丈夫。
立ち止まることは悪いことじゃない。
夢なんてなくても、何とかなる。
悩んで、もがいて、苦しいと感じてしまう時間も、
ちゃんと10年後の私の糧になっているから。
だから、大丈夫。
焦らなくて、大丈夫……」
ちょうど参考書の31ページ目の問題に取りかかろうとした瞬間だった。
いつもと違う放送局にチューニングを合わせていたことに気づかず、不意に女性の声がすーっと耳から入り込んできた。
手にしていたシャーペンを机に置き、両腕を頭上へとグッーと伸ばす。
その手を胸にあてて、深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。
よしっ。
髪を結び直して、カチカチっとシャーペンを2回ノックしたのを合図に、再び参考書の問題に向き合う。
ラジオからは私の知らないアーティスト名の曲が流れて始めていた。
【10年後の私から届いた手紙】