sairo

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1/22/2026, 12:04:14 PM

戸を叩く音がした。

「どちら様ですか?」

玄関越しに声をかけるが、返事はない。
恐ろしい感じはしなかった。戸越しに何かを迷い、気にしているのが伝わってくる。
戸惑いがちにもう一度、戸が叩かれる。

「夜分に、申し訳ありません。少々宜しいでしょうか」

控えめな声。やはり、何かが気にかかるのだろうか。
そんなことを思いながら戸を開けた。ひゅうと、冷たい風が吹き込んで、玄関先を雪が染めていく。

「よかった。あなた様が受け継がれたのですね」

戸の向こうにいた小柄な誰かが、安堵の息を吐く。その顔は深く被った笠に遮られ、見ることはできない。

「ご用件は何でしょうか」

首を傾げ、問いかける。それに慌てた様子で、誰かはそっと手を差し出した。

「申し訳ありません。こちらをどうぞ」

手袋に包まれた手に乗せられていたのは、たくさんの種類の花の種。

「えっと……これは?」
「遅ればせながら、贈り物にございます。正式に継がれたと話をお聞きしたのがつい先日のことでした故、挨拶が遅れまして大変申し訳ありませんでした」
「あ、その……お気になさらず?」

深々と頭を下げられ、内心で焦る。受け取ればいいのだろうかと、手を出した。
手に乗せられた花の種。自分でも知っているような特徴のある種や、見知らぬものまで様々だ。
嬉しくなって、口元が緩む。どんな花が咲くのだろう。どこに植えようか。そう考えるだけで、楽しくて堪らない。

「ありがとうございます。大切に育てます」

頭を下げれば、笠の向こう側でふふ、と小さく声がした。
顔を上げ、目の前の誰かを見つめる。相変わらず顔は見えない。それでも穏やかに微笑んでいる気配が伝わってくる。

「いえ。礼を言うのはこちらです……この度は受け継いで頂き、ありがとうございました。今年もどうぞよろしくお願い致します。」

居住まいを正し、目の前の誰かが再び頭を下げる。慌てて同じように頭を下げ、次に頭を上げた時、そこにはもう誰の姿もなかった。

「誰だったんだろう?」

何も聞けなかったことを残念に思う。
相手が誰だか分からなければ、お礼をすることもできない。種を見ながら溜息を吐く。
玄関から顔を出すが辺りは暗く、人影は見えない。冷たい風に押し戻されるようにして中に戻り、戸を閉めた。
いないのであれば仕方ない。頭を振って、薄く積もった雪を散らした。
種を育てていれば、また会いにきてくれるかもしれない。その時に改めて礼をしよう。そう思い、手の中の種に視線を落とす。
不意に吹き込んだ隙間風に、ふるりと肩を震わせる。すっかり体が冷えてしまった。風邪を引く前に暖まらなければと、足早に部屋へ向かった。



「誰が来てたんだい?」

部屋に戻ると、待っていた彼が不思議とそうに首を傾げた。
どう伝えればいいのか分からず、ただ首を振る。誰だったのか、性別も年齢も分からなかった。小柄ではあったが、落ち着いた声からは判断できない。
無言で手の中の花の種を見せる。種だけでは相手も分からないだろうとも思ったが、しかし彼には誰が来たのか大体の予想はついたらしい。種を受け取り手のひらで転がし目を細めて、あぁ、と小さく呟いた。

「誰が来たか、分かったの?」
「まぁね。お祝いにくれたのだろう?庭に植えてあげると、きっと喜んでくれるよ」

誰が、とは教えてはくれない。彼のことだ。聞いても、いつか分かると、笑って何も言わないのだろう。
彼は特にこの家のことに関しては、何も教えてくれない。後で分かることだと、気になって仕方ない自分に穏やかに笑いかけるだけだ。
密かに溜息を吐きながら、彼と向かい合う位置でこたつに入る。こたつの中でもどこか冷たい彼の足を、八つ当たり気味に蹴って天板に突っ伏した。

「そんなに怒らないで。楽しみはとっておいた方がいいじゃないか」

客人が誰なのか知りたいと思うのは、楽しみなのだろうか。顔を伏せたまま、眉間に皺を刻む。

「春になれば、また会いに来てくれるよ。この家は色々と賑やかになるからね。一気に知るよりも、相手が名乗った時に少しずつ知っていく方が混乱しないと思うよ」
「――賑やかなの?」

想像がつかなくて、半分だけ顔を上げて彼を見た。
自分が継いだこの家は、親戚が寄りつくことはない。立地もそうだが、ある日突然押しつけられる形で相続した時のことが頭を過ぎる。
取り壊し、土地を売ると決まっていたはずだった。自分とは関係のない相続の話し合いで終わっていたと言うのに、家を継げと言った親戚はどこか青ざめた顔をしていたように思う。

「賑やかだよ。だから、ここを継ぐことになったんだろう?」
「知らない。何か言う前に、全部決まってたし」

自分以外の大人たちが、夜遅くまで話し込んでいたのは知っているが、話し合いには参加をさせて貰えなかった。次の日に疲れた顔の両親から家を継げと言われここに来てから、そろそろ半年が過ぎようとしている。
そう言えば、あの日は今日と違いとても暑い夜だったなと、ぼんやり思う。季節が違うのだから当然ではあるが、なんだか実感が薄い。数日前の出来事のようで、寒い今が不思議に思えた。

「何だか、夏の夜から一気に冬の夜になったみたい」
「ここは静かだから、時間の流れがゆっくりに感じられるんだろう。ぼんやりしていたら、一年なんてあっという間に過ぎていくよ」
「やだなぁ。家の管理をしているうちに、どんどん年をとっていくのか……」

はぁ、と溜息を吐きながら、目を閉じる。冷えた体がこたつと石油ストーブで暖まり、眠くなってきてしまった。

「寝るなら、ちゃんと布団に入らないと駄目だろう」
「ちょっとだけ寝たら起きるから大丈夫……おやすみ、叔父さん」

きっと起きないだろう。そうは思ったが、眠いのだから仕方ない。
今夜だけ、特別。心の中で言い訳をして、そのまま意識は夢の中へと落ちていった。



柔らかな朝の日差しに、目が覚めた。
こたつではなく、自室のベッドで寝ていることに驚く。起き上がりながら、机の上に置かれた種を見て、思わず苦笑した。

「また叔父さんが来てたんだ」

この家を継いでから、時折現れる彼の幻。いつも違和感なく受け入れて、後になり幻だったと思い出す。
彼と過ごす夜に、特別な何かがあるわけではない。ありふれた日常の延長線。そこに彼が入り込んでいるだけ。
けれど、こうして一人で朝を迎える度に思う。
彼と過ごす夜は、何よりも特別で大切な夜だったと。

「せっかく貰ったし、今日は種を植えようかな」

種を手に、窓の外を見る。
快晴。薄い青がどこまでも続く空の下、種を植えたら、きっと綺麗な花が咲いてくれるだろう。
今から春が待ち遠しい。
花の咲き乱れる庭を思い浮かべながら、机の上の少し色褪せた彼の写真を突いた。



20260121 『特別な夜』

1/21/2026, 10:32:35 AM

暗く冷たい場所で、一人横たわっていた。
何も見えない。何も聞こえない。自身の姿すら曖昧だ。
ここはどこなのだろう。込み上げる疑問は、けれどすぐに解けて消えていく。
何も感じない。穏やかさに似た微睡みが、何もかもを沈めていく。
底にいるのに、これ以上沈むのか。
浮かぶ思いに、口元が笑む。けれどそれもすぐに沈んで、静かに目を閉じた。



「どうしたの?」

急に顔を覗き込まれ、ひゅっと息を呑んだ。

「驚かさないでよ」
「驚かしたつもりはないけど、ごめん」

眉を下げて謝る彼女に、何も言えなくなってしまう。
自分も謝るべきだろうか。そんなことを思いながらも黙っていれば、彼女はへらりと笑ってみせた。

「ごめんね。なんか悩んでいるみたいだったから気になって……大丈夫そうだし、私帰るね」

ばいばい、と手を振り、彼女は止めるまもなく去っていく。
作った笑顔だった。彼女がいなくなった後で、気が付いた。
追いかけるべきだろうか。心配してくれただろうに、ありがとうの一言も言えなかった。自分の態度も悪かった気がする。謝って、心配してくれてありがとうと言うべきではないだろうか。
色々なことが思い浮かぶも、結局動けない。いつもそうだ。忙しなく動く周りに、自分一人だけがついていけない。
彼女がいた場所に視線を向ける。誰もいないその場所が、とても冷たく感じられた。

「ごめんなさい」

今更な謝罪が虚しく響く。
気づけばとっくに下校時間は過ぎている。誰もいない教室で一人、のろのろと帰る準備をし始めた。



暗い場所で、一人佇んでいた。
辺りに灯りはなく、何も見えない。空を見上げるも月も星も見えなかった。
一人きり。けれど酷く心地の良い場所だ。当てもなく歩きながら、ぼんやりと思う。
とても静かだ。小さく吐く息の音すら聞こえない。温かくはないが寒くもないこの場所は、どこなのだろう。
浮かぶ疑問は、吐息と共に上へと浮かんでいく。
届かない場所。そんなことを思いながら上へと視線を向けて、ふと気づく。
ここは、外ではないのだろう。そもそも地上ですらない。
ほぅ、と吐息を溢す。目を凝らせば、微かに気泡が浮かんでいく。

ここは、海の底だ。
かつての故郷に帰ってきているのだ。

気づいて、途端に心細くなった。
何故帰ってきてしまったのか。どうやって戻ってきたのかも思い出せない。
手を伸ばす。けれど水面は遠く、手は届かない。
寂しいと呟く声は、音の代わりに気泡となって浮かんでいく。溢れた涙は海に混じり、残らない。

これでいいのかもしれない。自分の中の何かが囁いた。
憧れた地上は忙しない。行き交う人々。目まぐるしく変わる空の色。
立ち止まることのない自分以外に、ついていくのだ大変だろう。
確かにそうだ。囁く声に頷いた。認めた途端心が酷く痛んだが、仕方がないことなんだと力なく笑う。
彼女の側にいたいけれど、彼女を悲しませるだけなら側にいない方がいい。
涙は海に混じると分かっていても、唇を噛んで泣くのを堪える。目を伏せて、伸ばしたままの手をゆっくりと下ろしていく。
その手が何かに掴まれた気がした。驚いて顔を上げれば、暗闇に白銀のような白の翼が煌めく。
声も出せず、逃げ出すこともできずに、体が浮かび上がっていく。瞬きの間に周囲が明るくなり、水面越しに青い空が見えてきた。

あぁ、そう言えば。
近づく水面を、その向こう側の空を見ながら思い出す。
初めて地上に出た時も、こうして手を掴まれ連れて行かれたのだった。

ばしゃん、と水音がした。
鳥のなく声が、波の音がする。煌めく陽の光が眩しい。思わず目を閉じれば、一際高く鳥の鳴く声がした。



「大丈夫?」

彼女の声がして、目を開けた。

「あれ?」

辺りを見回す。そこは海の上ではなく、夕暮れに染まる教室の中だった。
夢でも見ていたのだろうか。困惑しながらも彼女を見る。

「どうしたの?」

首を傾げて彼女は問いかける。
なんでもないと首を振ろうとし、ふと彼女の髪に絡まる白を認めて、目を瞬いた。

「羽根……?」
「ん?……あぁ、絡まっちゃってたんだ」

苦笑しながら彼女は絡まる羽根を取る。白く、美しい羽根。
何かを思い出しかけて、けれどその前にくすくす笑う彼女に頭を撫でられ、消えてしまう。

「ごめんね」

突然謝られ、困惑する。彼女が謝る理由が分からない。

「今度はちゃんと合わせるから。もう少しここにいてね……海の底よりずっと鮮やかで、楽しい所なんだよ」

羽根を髪に差され、彼女は言う。訳が分からないけれども頷いた。
彼女が言うのだから、悪いことではないのだろう。

「そろそろ帰ろうよ」

そう言われ、慌てて鞄を取る。いつの間にか帰る準備ができていたことに驚くが、彼女は気にする様子はない。
手を繋いで、彼女と共に教室の外に出る。廊下を歩きながら、浮かび出した思いを気づけば口にしていた。

「忙しないけど、いい所だって私も思う。迷惑じゃないなら、これからも一緒にいたい。後、もう少し、浮かび上がる間分、立ち止まってほしい。置いて行かれるのは嫌だ」
「うん。ごめんね。ちゃんと気をつける」

不思議な感覚だ。気泡のように次々に浮かぶ言葉は止まらない。自分は言葉の意味を正しく理解できていないのに、彼女はすべて分かっているように頷いてくれる。

「静かなのも、一人なのも好きだったけど、今は少し違うから、こうして手を繋いでてほしい……私を食べようとしたことは忘れるから、海から出した責任はちゃんと取って」
「分かってます。だからもう、それは完全に忘れて!……ほら、帰りに美味しいもの、食べに行こう!」

慌てて話題を変えようとする彼女に、何故か楽しくなって小さく笑う。
彼女も笑い、繋いだ手を揺らしながら外に出た。

見上げた空は、段々と紺色に染まっていく。すぐに辺りは暗くなり、月や星が煌めくのだろう。
とても綺麗だ。見慣れているはずなのに初めて見る気がして、胸が高鳴る。

「今、とっても楽しいから、帰りたくない。だから帰らせないで。帰ったらきっと、もっと深く沈んで、底の底まで行くから」
「じゃあ、ちゃんと手を繋いでないとね」

きゅっと手を握られ、同じように手を握り返す。

世界はとても綺麗だ。憧れた地上は、想像など比べ物にならないくらいにきらきらと煌めいている。
ふと、そんなことを思う。不思議には思わない。
その内、忘れてしまうのだろう。

そんな予感がした。
繋いだ手から伝わる熱が、忘れさせると答えているみたいだった。




20260120 『海の底』

1/20/2026, 10:42:59 AM

会いたい。

込み上げる衝動に、気づけば走り出していた。
会えないことは分かっている。伸ばした手が届かないことなど、最初から気づいていた。
それでも走らずにはいられない。自分の気持ちを隠して何もない振りができるほど、器用ではなかった。
息が切れて、足がふらつく。苦しさに視界が歪むが、それでも足を止めようとは思わない。
いっそ風になれたのなら。こうして走るよりも早く会いに行けるのに。姿が見えなければ、形がなければ、側にいることも許されるような気がした。
所詮は夢。それでも考えてしまうのは、きっと自分が弱いからだ。
疲れを誤魔化すように、力強く地面を蹴り上げる。俯きそうになる顔を上げて、前だけを見つめた。
会えないことは分かっている。手を伸ばしても、棘のようなギザギザした葉が触られるのを拒むのだろう。
でも、会いたい。幼い頃に見た、怖いモノから守ってくれた大きな背に触れてみたい。
夕暮れから逃げ出すように、傾く陽を背に只管に走る。
息が苦しい。体が痛い。目が眩んで、前が見えない。

それでも、もう一度だけ。
不意に、風向きが変わった。背を押されて、速度を上げる。
会いたい。ただそれだけを願い。

残る力を振り絞り、地面を蹴って飛び上がった。





風が葉を揺する。
今の時期には珍しく、控えな風が吹いていた。服の裾や髪に触れるかのような弱い風に、男は僅かに目を細めた。

「――帰ってきたのね」

いつの間にか、男の背後には女の姿があった。赤い着物を身に纏い、辺りで漂う風に手を伸ばす。

「おかえりなさい。皆、あなたを待っていたわ」

柔らかく微笑む女の裾が、ふわりと揺れる。まるで戯れるように女の周りを風がぐるりと回っているのを、男は表情を変えずただ見つめていた。
ざわりと、周囲の木々が騒めいた。風に揺すられたのではない。女の元に在る風以外には、そよ風ひとつ起こってはいない。
ざわざわと、草木が音を立てる。まるで風の戻りを喜ぶかのように。

「南天」
「なぁに?柊」

女に呼びかけながら、男はそれ以上何も言わなかった。
目を逸らし、咲かせた白の花を見る。ただ一人のために咲かせた花は、今年もまた愛でられることなく散っていくのだろう。

「ようやく帰ってきてくれたのに、相変わらずね」
「あいつは人間だ。風ではない」
「そうね。人間だったから、隠されて帰れなくなった……人間ではなくなったから、こうして帰ってこられたのよ」

穏やかでありながらも、無慈悲な言葉。強く握りしめた手を不安がるように、風が男の周りをくるりと周り離れていく。

「このお庭から出ては駄目よ。いい子だから、これからはお庭とお屋敷の中で遊びなさいね」

過ぎていく風に、女が微笑み声をかけた。
了承するように、風が枯草を舞い上げる。庭の木々と遊ぶ風を見つめ、女はふっと吐息を溢した。

「あの子は戻ってきたの。どんな形であれ戻ってきたのだから、それを喜ばなくては」

男を見つめる赤い目は、静かな悲しみに染まっている。
男は何も言わない。女の目を見返しながら、在りし日の賑やかであった庭を思う。

風がただの娘であった頃。庭も屋敷も、とても賑やかだった。
毎日のように、娘の笑い声が響いていた。両親を愛し、庭の草木を愛した娘。その笑顔を、誰もが愛していた。
一度だけ、男の姿を娘は見た。あれは山から吹いた邪気が庭に入り込もうとした時だったか。
驚いたような丸い目と綻ぶ笑顔を、男が忘れたことはない。

「ここにいる限り守ってあげられる。そうでしょう?」
「――あぁ」

どこか願うような女の言葉に、男は無感情に呟いた。
柊と南天。鬼門、裏鬼門にそれぞれ植えられた木は魔を払う。この庭にいる限りは、確かに守られはするのだろう。
だが、今更守った所で何になるというのか。
胸の内で呟く。娘の笑顔も、弾む声も戻りはしない。長く無人の屋敷はひっそりと朽ちかけ、人の手の入らない庭は荒れ果てている。
元には戻らない。なくなってしまったものが帰るなど、決してありはしないのだ。
沈黙する男と女の間を、風が吹き抜けていく。泣くのを堪えて俯いた女は、慰めのように髪を揺する風に顔を上げ微笑む。
その頬を濡らす滴を、風が拭い去っていく。風となっても、娘の優しさは変わらないらしい。短く息を吐き、男は咲いた白い花に指先を触れさせた。

「今年もまた花が咲いた。南天の実も、赤く色づいているだろう……お前が愛したものはお前を待ち続け、残っていた。ここはお前のための場所だ」

花が揺れる。男の指を掠めて、風が過ぎる。
花の香りの混じり、微かに懐かしい匂いが鼻腔をくすぐる。娘の匂い。見えないけれど、ここに娘はいるのだ。
だが風に娘を感じるほど、男は娘に会いたい気持ちが募っていく。ここにいるのに触れられない。姿も声もないことが、苦しかった。

おかえり、とは言えない。
女のように、すべて受け入れることが男にはできない。
過ぎる風を追いかけ、手が彷徨う。かつては痛みを与えるからと触れるのを拒んでいたはずの男が、今は娘に触れたいと求めている。その滑稽さに男の口元が歪んだ。

会いたい。
会いたくて、寂しくて、苦しくて。
ただ感じる娘の気配が、愛おしくて堪らなかった。




20260119 『君に会いたくて』

1/19/2026, 11:26:35 AM

押入れから出てきた日記帳には、鍵がかかっていた。

「こんな日記帳、持ってたかな?」

首を傾げながら、入っていた箱の中を探る。けれども鍵は見つからなかった。
他の箱の中だろうか。すぐには使わないものを押入れの中に詰め込んだ、過去の自分を少しだけ恨む。

「ないなぁ」

押入れから別の箱を取り出し、中を探るが見つからない。箱だけでなく押入れの中も確認したが、それらしい鍵はなかった。
小さく溜息を吐く。
押入れの整理は捗らず、見覚えのない日記帳には鍵がかかっていて中を確認できない。
机の上に置いた日記帳に視線を向ければ余計に疲れを感じて、目を逸らし肩を落とした。
鍵を探すため箱から出したものを戻し、押入れの中に箱を押し込む。押入れを閉めた後で日記帳を片付けていないことに気づいたが、これ以上何もする気力が起きず、ベッドに倒れ込むように横になるとそのまま目を閉じた。



空腹を感じ、目が覚めた。
辺りは暗い。窓の外には夜が広がり、空には星が煌めいている。
どうやらあのまま眠ってしまったらしい。
溜息を吐き、ベッドから抜け出し電気をつける。サイドテーブルに置かれた時計を見れば、十時を過ぎている。夕飯には遅すぎる時間だが、軽く何か食べようとキッチンに向かった。

何かあっただろうかと、冷蔵庫の中を覗く。水やお茶などのペットボトルと調味料がいくつか。そして空いた袋の中に残る食パンが一枚。
溜息を吐いて、パンとジャムを取り出した。

「一人暮らしって自由だけど、こういう所が不便」

パンを焼く気にもなれず、そのままジャムを塗る。行儀が悪いと思いながらもパンを咥えつつ、ジャムを戻してお茶のペットボトルを取り出した。
パンをお茶で流し込み、息を吐く。ペットボトルを冷蔵庫に入れながら風呂に視線を向けるが、今から入る気力はなかった。
そのまま部屋に戻り、何気なく机の上を見る。鍵のかかった日記帳。何故かそれが気になって、机に近寄り手に取った。

「いつ書いたんだろう?」

記憶を辿るが、思い出せない。けれど、日記帳は自分のものだ。
そう確信することを不思議に思いながら、日記帳を手にベッドに横になる。鍵はかかったまま。いっそ壊してしまおうかなどと物騒なことを思いながら、少し色あせた表紙をそっと撫でた。

――1月10日。

ふと、頭の中で声がした。
子供の声。びくり、と肩が揺れるが、手は日記帳から離れない。

――お年玉で日記帳を買った。かわいいお花の、カギのついた特別な日記帳。

声は語る。嬉しそうに、どこか恥ずかしそうに、日記を読み上げる。

――カギはふたつ。わたしとあの子のためのカギ。ふたりだけの秘密の日記にしよう。

これはこの日記帳に書かれていることなのか。弾む声が一日おきの日々の出来事を語っていく。
学校のこと。勉強のこと。あの子とどこへ行って、何をしたのか。
一日おきなのは、あの子という誰かとの交換日記だからだろうか。どれもが楽しい思い出のようで、ささいな出来事もすべて特別なことのように語っていた。
恐怖はない。ただ疑問ばかりが浮かんでくる。
この声は自分のものなのか。あの子とは誰なのか。
声はあの子の名前を語らない。僅かに記憶に残る日々を綴り感情が揺さぶられるのに、あの子の顔だけは出てこない。
声が語る内容は一月を過ぎ、二月へと続いていく。一日おきは欠かさず、あの子との日記が綴られる。
そして、日記は三月になった。

――三月。

そこで声は止まる。
何かあったのだろうか。声は沈黙を続け、不安に日記帳に触れたままの手が震えた。

――あの子はいない。

酷く淡々とした声だった。今まで弾むように感情を露にしていた声の突然の変化に、息を呑む。

――日記帳も、カギもない。全部流されて、連れていかれてしまった。だから、わたしたちの秘密はここでおしまい。

感情が抜け落ちた声が告げ、それきり何も聞こえなくなる。
ゆっくりと日記帳から手を離す。体を起こし、頭を押さえた。

「なに……今の……?」

目眩がする。頭が痛い。聞こえた声も、その内容も、自分の記憶も、色々なことがいっぺんに押し寄せて、訳が分からない。
強く目を閉じる。眉間に刻まれた皺を指で伸ばし、深呼吸を繰り返す。

「あの子は、いない……」

確かめるように呟いた。それだけで、浮かぶあの子という輪郭がぼやけていく。
これは、思い出してはいけないものだ。思い出してしまったら、戻ることはできない。
理由も分からないのに、理解できる。その正反対の感覚か苦しい。

「あの子はいない」

何度も繰り返す。言い聞かせるように、祈るように声に出す。
もう一度深呼吸をしてから、恐る恐る目を開けた。
見慣れた自分の部屋。ぐるりと部屋を見回し手元に視線を落とした。

「っ……!?」

日記帳が濡れていた。表紙がふやけ、紙が捲れている。
錆びついた鍵穴に触れれば、その途端にぼろりと崩れ、外れてしまう。まるで枷が外れたことを喜ぶかのように、濡れているはずの紙の端が僅かに膨らんだ。
今ならば、中身を見ることができる。
内側から囁く誘惑に、肩を揺らして頭を振った。
思い出してはいけないと思ったばかりだというのに、思い出したいと思う衝動が恐ろしかった。
あの子はいない。
言葉にしようとして、けれど声が喉に張り付き掠れた吐息しか溢れない。じわりと涙で視界が滲むのが唯一許された抵抗のように思えて、それが無性に悲しいと感じていた。
不意に、背中を撫でられる感覚がした。小さなその手に優しさを感じて、困惑と共に涙が溢れ落ちていく。
苦しい。悲しい。寂しい。会いたい。
たくさんの感情に、押し潰されてしまいそうだ。

「――ごめんなさい」

気づけば、背を撫でる手に謝っていた。
次から次に涙が溢れ、しゃくりあげながら、何度もごめんなさいを繰り返す。

「何もできなくて、ごめんなさい。弱くて、ごめんなさい……こうしなきゃ前を向けなくて、ごめんなさい」

優しい手は、ただ背を撫で続ける。
微かに香る海の匂い。二度と繋ぐことのできない手。それに痛みを覚えて日記帳を抱きしめ、声を上げて泣き続けた。



気がつけば、朝を迎えていた。
重たい頭に眉を寄せながら、体を起こす。ベッドや周りを見るが、日記帳はどこにも見当たらなかった。

「夢……?」

どこからが夢だったのだろう。痛む頭を押さえながら考えるが、何も分からなかった。
深く溜息を吐く。気持ちを切り替えるため、顔を洗おうと立ち上がった。
いっそシャワーを浴びれば、すっきりするのかもしれない。お湯と共に、夢の名残りなどすべて流してしまえるだろう。
そう思いながら、何気なく机の上に置かれたままの新しいスケジュール帳の表紙を指でなぞった。
新年だからと、新しく買ったスケジュール帳。簡単な日記帳としても使えるものだが、日記として使うことはないだろう。

一度閉ざされた日記を、もう一度開ける勇気はない。

「まだ、頭が眠っているみたい」

思わず苦笑する。何故そんなことを思うのか、分からなかった。

「ごめんね」

無意識に溢れた言葉。きっと、夢から抜け出せていないのだろう。
準備を整え、足早に風呂に向かう。
早く目を覚まさなければ。夢など忘れなければ。

夢にしなければ、戻れない。
前を見ることなど、二度とできなくなってしまうのだろうから。





20260118 『閉ざされた日記』

1/18/2026, 7:13:45 AM

過ぎる凍てついた風に、身を震わせた。
くしゅん、とくしゃみをひとつ。身に染みる寒さに、足早に街路樹を抜けていく。

「寒い」

思わず呟いた。口にすることで、余計に寒さが増した気がして眉が寄る。溜息一つでさえ今は熱を奪っていくようで、白いマフラーに顔を埋める。俯き身を縮めながら、只管に家路を急いだ。



「おかえり。早かったね」

こたつに入り、みかんを剝きつつ姉は笑う。

「ただいま」

それに少しばかり拍子抜けしながら、おざなりに挨拶をしてこたつの中に入り込んだ。
暖かい。足元からじんわりと熱が伝わり、体の力が抜けていく。

「どうしたの?随分疲れているみたい」
「別に……ただ、今日は寒かった」

足だけでは足りず、温もりを求めてこたつの中に潜り込む。
不思議そうに問いかけられ、感じた寒さを訴える。目を瞬いた姉は窓の外に視線を向け、あぁ、と小さく声を上げた。

「木枯らしか」
「木枯らし?」

眉を寄せ、窓の外を見る。枯れた木々には葉が一枚も残ってはおらず、枝には僅かに雪が積もっていた。
年が明けて、一月も経っていないのだから当然だ。春はまだ遠く、況して木枯らしが吹く晩秋はとうに過ぎ去ってしまった。

「玉風じゃないの?」
「木枯らしだよ……きっとどこかに残っていた秋を見つけて、冬が奪い去っていったんだね」

目を細めて呟く姉は、どこか切なげだ。もぞもぞと体を起こし、姉と同じ目線で窓の外を見る。
外では枯れた木々の枝を、風が揺らしている。積もる雪を散らし、まるで何かを探しているようにも見えた。
秋を奪い去る冬。荒れる風と、枯れて何も残っていないはずの木々。
まだ残っているのだろうか。一つ残さず見つけ出そうとする冬を思い浮かべ、その執着にふるりと肩を震わせた。

「何だか、恐ろしい」
「確かにね。春を迎えるためには必要なことではあるのだけれど」

こたつの上のみかんに手を伸ばし、姉は小さく息を吐く。

「残っている秋は、去年のものだから。新しい年の、新しい春には必要ないからね」

そういうものなのか。姉のようにみかんを手に取り、皮を剥きながら考えた。
去年。そして今年。何もかもが変わらないように見えるが、やはり何かは違っているのだろう。
皮の剥かれたみかん。一房食べれば瑞々しい甘さが口に広がっていく。口元を緩めながら、このみかんは去年育ったみかんだな、と取り留めのないことを思った。
かたん、と窓が鳴る。視線を向ければ、外では変わらず風が木々を揺らすほど強く吹いていた。

「荒れてるね」
「そうね。きっとまだ全部見つかってないのでしょうね」

こたつで姉と二人、黙々とみかんを食べる。
ふと、喉の渇きを覚えた。名残惜しげにこたつを出て、台所へと向かう。

ひやりとした床や空気が、容赦なく熱を奪っていく。ふるりと肩を震わせ、手早くやかんに水を入れ火にかけた。
湯が沸く間に湯飲みや急須、茶筒を盆に乗せる。甲高いやかんの音を合図に、火を止めた。
不意に、冷たい風が吹き抜けた。誰かの視線を感じて振り返れば、いつの間に戻ってきていたのか、兄が台所の入口に佇んでいた。

「あ、おかえり」
「ただいま」

僅かに目を細めて微笑み、兄が台所に入ってくる。外から帰って来たばかりの兄の周囲は、まだ外の冷えた空気が残っているような気がした。

「お仕事はもう終わり?」
「あぁ。今日は終いにした」
「そう」

湯飲みを一つ新たに盆に乗せ、沸かした湯を保温ポットに入れる。茶請けも必要かと戸棚に視線を向ければ、兄が察して茶請けを取り出し盆に乗せて台所を出て行った。
ポットを持って後に続く。兄のいた場所はどこか冷えていて、吐き出した息がうっすらと白くなるのに、また小さく体を震わせた。


「今日は早かったのね」

こたつに置かれた茶請けに早速手を伸ばしながら、姉は首を傾げて問いかけた。
兄は肩を竦めるだけで何も答えない。黙々と茶を淹れて、姉の前へ湯飲みを置いた。
同じように目の前に湯飲みを置かれ、そっと手を伸ばす。湯飲みから伝わる熱で冷えていた手を温めながら、湯飲みを覗き込んだ。

「あ、茶柱」
「相変わらず、お茶を淹れるのが上手よね」

くすくすと姉は笑う。それに同意しながら、湯気に息を吹きかけた。
湯呑みに口をつける。まだ冷めていない茶の熱さに舌が痛むが、それが気にならないほどの美味しさに笑みが浮かぶ。誰かといるぬくもりと幸せに、段々と意識が微睡んでいく。

「寝ちゃいそうね。じゃあ、ちょっと早いけど、夕ご飯の支度をしてくるわ」

優しく頭を撫でられる感覚。離れていく姉の気配に、手伝いをしなければと閉じかけている目を擦る。

「今日は鍋だから、それまで寝てなさい」

姉の声が遠くなり、肩を抱かれ、そのまま横になる。薄く目を開ければ、膝枕をする兄と目が合った。

「寝ていろ。そう言われただろう」

大きな手が、目を塞ぐ。暗闇と冷たさに、ほぅ、と吐息が溢れ落ちた。
いつの間にか、風が止んでいる。何故かそれが気になって、目を塞ぐ兄の手に触れた。

「木枯らしは止んだの?残っていた秋は見つかった?」
「何だ、それは」
「だって……秋が残ると、春が……」

頭を撫でられる。冷たい手に、浮かんだ疑問が消えていく。

「担がれたのだろう。秋が残るなどあり得ない……冬が秋を置いていくことなどないのだから」

声が遠い。疑問も、記憶も、何もかも遠くなって、どこまでも沈んでいく。

そういえば。
眠りに抗うように、疑問が込み上げる。

兄と姉。家族であるはずの二人の名は、何だっただろうか。
本当に彼らは自分の家族だっただろうか。

両親の顔を、自分の名さえ、思い出せない。

「眠れ。心配せずともここにいよう。一人でないのだから、泣くことはないだろう」

意識が沈む。
思い出せないことすら忘れて、暖かな眠りへと落ちていく。

かたん、と風が窓を揺らす。
冬に移り変わる前の、秋の風が呼んでいる。

けれどもう、冬の腕の中の自分には。
その呼び声は聞こえなかった。



20260117 『木枯らし』

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