窓辺に座り、暗い空を見上げる。
細い三日月が笑う星空は、どれだけ見ていても動く様子はない。
凍てつき、時を止めてしまったかのような星々に誰かの背が重なって、眉を寄せ唇を噛み締めた。
嫌なものを思い出した。視線を下ろし、暗いばかりの周囲を見つめる。星空以上に冷たさしか感じられない暗闇に重なる何かを振り切るように、音を立ててカーテンを閉めた。
くしゅん。
小さなくしゃみと共に、毛が逆立った。
「そろそろ寒くなってきたからね」
くすくすと彼女は笑いながら、四本の尾で体を包まれる。
暖かい。逆立つ毛を丁寧に毛繕いしてくれる神使の姿の彼女は、白くてきらきらしていて、とても綺麗だった。
「さて、今度はどんな物語が聞きたい?それとも遊びに行こうか」
柔らかな彼女の声と毛繕いの気持ち良さに目が細まる。
次は何をしようか。そう考えて、ふと気になっていたことが口から溢れ落ちた。
「神使のことについて知りたいな」
神使とは、ただの役割だと彼女は言った。お役目を持った長くを生きた狐。それが自分なのだと。
「そうだねぇ。神様のお使いがほとんどかな。人間からのお願い事は、私は専門外だったし」
聞きたい?そう聞かれて、頷いた。
彼女のことが知りたい。秘密を知って前よりも仲良くなれて、なのにさらにもっとと欲しくなる。
我が儘だろうか。そう思うが、彼女の尾が優しく背を撫でて、思わず甘えるように擦り寄った。
「じゃあ、特別に教えてあげる。昔々――」
そう言って物語を語るように、彼女はゆっくりと語り出した。
口を開き、息を吐き出した。
喉は震えない。ただ息が溢れ落ちるだけ。
「大丈夫。必ず治るよ」
優しく頭を撫でて姉は言う。それに小さく頷きを返すものの、それを心から信じられるほど子供ではなかった。
声は出ない。
きっと二度と歌えないのだろう。
肌寒さに目が覚めた。
微睡む意識で、周りを見渡す。
まだ薄暗い部屋の中、カーテンが微かに揺れているのが見えた。
窓を開けた記憶はない。自分の他に窓を開けるような誰かもいない。
何故窓が開いているのだろうか。込み上げる疑問に、だが窓を確かめる気力はなかった。
体が鉛のように重い。気を抜けばすぐにでも瞼が閉じてしまいそうだ。
ぼんやりと、揺れるカーテンを見る。強く風が吹き込んだのか、大きくカーテンが揺れ、僅かに外が覗いた。
薄暗く、寒々しい空。葉の落ちた木。窓の結露。
きっと、外は霜が降りているのだろう。
息を深く吸い込み、吐き出す。
ただそれだけの動作を繰り返す。
目はまだ開けられない。胸の鼓動は少しも凪ぎはしない。
気づけば苦しさに、胸の前で手を組んでいた。きつく組んだ手の熱に、そのまま溶けていきそうな錯覚を覚える。
薄く目を開ける。組んだ手に視線を向け、その滑稽さに乾いた笑いが込み上げた。
目を閉じ、胸の前で手を組むその姿。
それはまるで、祈りを捧げているように思えた。
目を閉じて、自嘲する。
何を祈ることがあるのか。今更誰に祈りを捧げるというのか。
空っぽになってしまった自分には、もう何もない。あるのは埋まらない欠落のみで、そこに願いは存在しない。
深く息を吸い込み、吐き出した。
きんと冷えた空気が、肺を満たす。痛みすら覚えるその冷たさに、浮かぶ感情が凪いでいく。
けれども感じる胸の鼓動は変わらないまま。速くもなく遅くもないその規則正しさが、苦しくて堪らない。
「誰か……」
喘ぐような呼吸に紛れ、無意識に呟いた言葉が鼓膜を震わせる。
まるで子供のようだ。ぼんやりとした意識で、そう思う。
きつく組んだ手を伸ばせず、立ち尽くしたままどこにも行けず。それでも誰かが気づいて、手を差し伸べてくれることを待っている。どこまでも他力本願な自分に、吐き気がしそうだ。
息を深く吸い込み、吐き出した。
それだけで何もかもが鎮まっていく。
残るのは、鼓動と呼吸。決して止まることのない二つだけ。
不意に、空気の流れが変わった。
自分の横を、誰かが通り過ぎていく。そんな感覚に、小さく息を呑んだ。
目は開けられない。誰がいて、誰がいないのか。まだ見る勇気がなかった。
目を開ける代わりに唇を噛みしめれば、背中に仄かな温もりを感じた。
優しく、愛おしいその温もり。ふわりと薫る懐かしい匂いに、鼓動が跳ね呼吸が乱れる。
背中を包み込むように、後ろから抱き締められている。
いつもそうだ。一人で泣いていれば必ず気づいて、こうして泣き止むまで抱き締めてくれた。
慰めの言葉はない。ただ泣き止むまで、側にいる。それだけで不思議と悲しみは消え、涙の代わりに笑みが溢れていたことを思い出した。
「――大丈夫だよ」
掠れた声で呟いた。泣くのを堪えた、か細い震えた声。
届いたかは分からない。それでも伝えなければと、息を吸い込んだ。
「大丈夫。ちゃんと一人で歩けるから。もう手を引かれなくても、迷ったりはしないから」
だから大丈夫。
そう繰り返せば、優しい温もりが頭に触れた。褒めるように撫でられて、耐えきれず一筋頬を滴が伝う。
息を深く吸い込み、吐き出した。
きつく組んだ手を、ゆっくりと離していく。凪ぐことのない胸の鼓動が、穏やかに旋律を刻んでいく。
温もりが離れていく。とん、と背中を押されて、一歩足が前に出た。
「ありがとう」
笑みを浮かべ、感謝の言葉を口にする。
最後まで優しい人だった。
自分を導き、守ってくれた唯一。
もういない。
「大丈夫。一人で歩けるよ」
息を深く吸い込んで、吐き出す。
顔を上げて、閉じていた目を開けた。
「――っ」
網膜を焼くような、色彩の鮮やかさに息を呑んだ。
手を引かれていた時には分からなかった。それだけ自分の中の世界は狭かった。
澄んだ空の青。赤や黄に色づいた葉。枯れることを知らない山の緑。
「あぁ……」
思わず声が漏れる。
世界は美しいのだと、いつか言われたことを思い出す。
あの時は、信じていなかった。世界とは怖ろしく、醜いものでいっぱいなのだと、根拠もなくそう思っていた。
今になって、一人きりになってようやく理解した。
息を吸い、吐く。
冷えた空気が胸を刺した。
痛みすら覚えるその冷たさ。その中に懐かしい匂いを感じて、涙の代わりに笑みが浮かぶ。
一歩、足を踏み出した。さくり、と落ち葉が音を立てる音すら美しい。
前を向いて歩き出す。目を閉じることも、手を組むこともしない。
無条件に差し伸べられる手を失った今、祈り、誰かの助けを待つことはない。
「大丈夫。世界は綺麗なんだから」
呟けば、そっと風が過ぎていく。
冷たさに混じる、どこか甘さを感じる匂い。吸い込んで吐き出せば、それだけで心が軽くなる気がした。
20251127 『心の深呼吸』