sairo

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10/13/2024, 12:20:40 AM

気づけば、三方を白のカーテンに覆われたベッドで眠っていた。
起き上がり、あれ、と首を傾げる。少し前の記憶を辿る。
本を読んでいたはずだ。
寝付けずベッドから抜け出し、夜の音を聞きながら。
いつの間にか眠ってしまったのか。それで様子を見に来た父にベッドへと運ばれたのか。
それにしても、このカーテンは何だろう。
月に照らされているのか、その仄かな光を白が強調し、まるで映画のスクリーンのようにも見える。

ぼんやり眺めていれば、不意に目の前のカーテンに影が浮かび上がる。
曖昧なその形は、次第に輪郭をはっきりとさせ、髪の長い女性の人影を取った。

「眠れないの?」

小首を傾げて、影は聞く。

「今日はたまたま、だよ」

答えるが、きっとばれているのだろう。

「俺を運んでくれたのは、誰?」
「お父さま。ずっと起きていたから、桧にお願いして香りを届けたの。眠ってしまったあなたを運んでもらったのよ」

ごめん、と謝ろうとすれば、それを遮るように影が首を振る。
謝るのは違う。そう言われたような気がして、出かけた言葉を呑み込み、改めて口を開いた。

「いつもありがとう」
「どう致しまして。あなたが元気で笑っていてくれるのならば、それでみんなが幸せになれる」

影の歌うような囁きに、何だか照れくさくなってしまって、思わず視線を逸らした。
庭にいる、人ではない彼らはいつも優しい。
その優しさに返せるものはあるのかと、優しさをもらう度に少しだけ不安になる。

「何かお返しが出来ればいいのに」
「言ったでしょう。笑ってくれていればいいの」
「それだけで、本当にいいの?」
「そうよ。でも、そうね」

影が背後を振り返る。
ひそひそと話す声に、皆いるのかと小さく笑ってしまう。
何を話しているのだろう。声は小さくうまく聞き取る事が出来ない。
暫くして影がまたこちらに向き直る。
影の表情は分からないけれど、何故か笑っているような気がした。

「あなたがもっと我が儘になってくれれば嬉しい。我慢をしないで、何でも話してくれたらいいのにといつも思っているの」

そうだそうだと、影の背後でたくさんの声が同意する。

「どんな些細な事でもいいの。嬉しいとか、楽しいとか。感じた事を話してくれたら、みんなも嬉しいし楽しくなる。寂しいとか、悲しいとか。吐き出してくれれば、安心するのよ」
「迷惑じゃない?」
「まさか。一人で耐えているのを見ているだけの方がつらいわ」
「言ってもいいの?」
「言って。何でもいいから。どんな些細な事でもいいから、みんなにお話しして」

そっか、と言葉を溢す。
うまく言葉に出来ない気がしたが、それでもいいよと言われているようで。
皆に促されるようにして、口を開いた。

「目を閉じると、母さんが出てくる。あの日の、寝ているような母さんを思い出す。寝ているんだって思って声をかけても、全然起きなくて。肩を触ったらすごく冷たくて」

涙は出ない。悲しい訳ではない。
それでも思い出してしまう。その自分でもよく分からない溜まった思いは、分からないからこそ名前をつけられず、誰かに話す事も出来ないと思っていた。

「このまま寝たら起きられるのか、とか。一人は寂しいだろうな、とか考えて。考えるから、目が冴えて。そうすると眠れなくなる。ずっと」
「そう。考えてしまうの。じゃあ、」

――考えなくてもいいように。

しゃん、と。どこからか、鈴の音。
音に合わせて、影がくるりと回る。
くるり、ふわり、と綺麗なステップを踏んで、踊り出す。

「きれい」

影が舞うのに合わせて、笛が高らかに音を響かせる。
鈴と、笛と。それから、左右から聞こえる弦の音は三味線か。
気づけば、左右のカーテンに様々な影が現れ、緩やかな曲を奏でていく。
曲に合わせて影が舞う。
ひらり、くるり、と影の舞に目を奪われて。
ふわり、くらり、と意識が揺らぐ。
いつしか微睡んで。体が揺れて、瞼が重くなっていく。

「眠る事は怖くはないでしょう。大丈夫、明日は必ず訪れる」

背中を暖かな手に支えられ、ゆっくりとベッドに寝かされて。
大丈夫、の言葉に、抵抗する事なく目を閉じる。
母の姿は見えなかった。

――おやすみなさい。可愛い子。

誰かの声。
ありがとう、と心の中で呟いた。



20241012 『カーテン』

10/11/2024, 9:55:42 PM

午後の穏やかな日差しが、眠気を誘う。
閉じそうになる瞼を、微睡む意識を繋ぎ止めるため、頭を振った。
それでも、少し経てばまた瞼は重く、微睡んで。
仕方がないと、読んでいた本を閉じた。
これはもう、少し眠ってしまった方が良いだろう。
欠伸をひとつして、伸びをする。
本を手に立ち上がると、丁度良く兄が帰宅したみたいだった。
「おかえりなさい」
「ただいま」

いつものように挨拶を交わせば、穏やかに笑んで挨拶を返してくれる。
しかし、その笑みはこちらを認識して、訝しげなものへと変わった。

「泣いていたの?」

側に寄り、目尻を拭われる。
さっき欠伸をした時だろう。その指先についた滴に、またかと苦笑し首を振る。

「本、読んでたら暖かくなって、眠くなってきちゃった」
「夜更かしするからだろう」
「そんな事ないと思うけどなあ。ちゃんと日付が変わる前にはベッドに入ってるよ」

兄はいつもこうだ。
心配性で、過保護。
昔から少しでも泣けば、すぐに側にきて心配し、泣く原因を取り除こうとする。
まるで、泣く事を恐れているみたいだった。
その心配が、いつからか息苦しくなる時があり、以前よりも兄が苦手になってしまっていた。
だから進学を機に、兄から離れようと一人暮らしを選択したはずなのに。
何故か一緒に暮らす事になってしまった理由は、未だによく分からない。

「でも、最近夜中に起きているじゃあないか。眠れないの?」

気づかれていたのか。
どうしようかと、表情には出さずに悩む。
正直に嫌な夢を見ると言う気にはならなかった。
眠れるようにとあれこれ世話を焼かれるのも嫌だし、言って夢の内容を詳しく聞かれるのも嫌だ。

「早く寝過ぎちゃってるのかも。もう少し起きていようかな」
「そんな訳ないだろう。途中で目が覚めるというなら、悪い夢でも見ているのかな」
「どうだろう。よく覚えてないから分かんないや」

相変わらず、兄は鋭い。
曖昧に笑って誤魔化すが、おそらくそれすらも分かっているのだろう。
小さく息を吐く。兄から少しだけ視線を逸らして。

「兄さんがいつまで経っても独り身だから、それが心配なのかもね」

嘘でも、本当でもない答えを呟いて、自室へと戻った。
目はすっかり冴えてしまっていた。





今日もまた、同じ夢を見る。

暗い部屋。
その奥に積み上がる、たくさんの同じ顔をした人形達。
目の前の、無表情の兄。

「なぜ」

冷たい指先が、目尻をなぞる。

「なぜ、泣く」

指先を濡らす涙は、止まる事はなく。
声もなく、表情ひとつ変えずにただ涙を流す。
もう、これしか出来ないからだ。
声もなく、四肢の自由もない自分には、もうこれだけしか意思を伝える術がない。

「また失敗か」

無機質な声音。
涙で濡れた手が首を掴み、そのまま引きずられていく。
部屋の奥。さらに深い暗がりに積み上がる人形の数が、また一つ増えた。

いつまで繰り返すのだろうか。
すでに兄の目的は達せられたはずだ。
彼女を取り戻すために、代価品として元のこの身を燃やしたのは兄だろうに。
何故、今更。
燃え滓を集めた所で、元には戻る事など決してない。
記憶をかき集めた所で、それが命になる事などあるはずがない。
分かっているだろうに。どうして認めようとしないのか。

兄の去った部屋。
静寂の中、涙を流す。
悲しいのか、苦しいのか。今はもう、その理由は擦り切れ思い出す事はない。
積み重なる、たくさんの失敗作の自分達が、声もなく泣いている。
部屋を濡らす涙は嵩を増し、それはいつしか部屋を沈めていく。
悲しみも、苦しみも、寂しさも。身も心もすべてを涙は鎮め解かしていく。


願わくは、兄がこの部屋を忘れ、二度と戻る事がないように。
苦海に永く沈む事のないように。
無意味と知りながらも、思わずにはいられなかった。





目が覚めた。
まだ空は暗く、朝は遠い。
溢れ落ちる涙を拭い、息を吐いた。

いつからか見るようになった夢。
最初は、逃げ出した。部屋から出る事は出来たが、それだけだった。
次は、歩く事が出来ず、床を這いながら逃げようと足掻いた。小さな舌打ちと共に視界が暗転した。
何度も繰り返す夢。夢だと笑い飛ばす事は、もう出来なくなっていた。

体を起こそうとして、止める。
顔を洗いに行きたいが、兄に気づかれる訳にはいかない。それよりはと、体を起こす事なくもう一度目を閉じた。

こんこんと、扉を叩く音。

「大丈夫?」
「寝てるんだから、起こさないでよ」

かちゃりと、扉が開く音がして、兄が入ってくる。

「まだ入っていいよって、言ってないよ」
「ごめんね」

軽い謝罪に、いつもそうだと愚痴を溢す。
戻る気配のない兄に、体を起こして何、と要件を尋ねた。

「目が覚めたみたいだから。ほら、タオルを持ってきたから、目を冷やして。腫れてしまうよ」

準備の良すぎる兄に思う所はあれど、素直に渡されたタオルを目に当てる。
冷えたタオルの心地良さを堪能していれば、兄の静かな声が鼓膜を揺すった。

「どんな夢を見た?」

忘れた、と言葉にするのは簡単だ。
けれどそれを、兄が許してはくれないのだろうと、そう思った。

「兄さんがいつまでもお婿に行かないで、ずっと部屋に籠もってお人形遊びをしている夢」

何それ、と困惑を含んだ声。
それに、正夢にはしないでね、と呟いた。



20241011 『涙の理由』

10/10/2024, 9:57:19 PM

赤く艶やかな果実を一つもぎ取る。
しゃり、と音を立てて囓れば、広がる甘酸っぱさに目を細めた。

今年も無事に実りを迎える事が出来た。
上等だ。きっと満足してもらえるはず。
そう思えば、緩む口元を押さえる事が出来なかった。
手をかけてきたものが、こうして最良の結果を伴って応えてくれる。この瞬間が、何よりも好きだ。
たわわに実る種々の果実も。
一面に広がる黄金の稲穂の海も。
心を躍らせ、目を楽しませてくれる。

しゃり、とまた一口果実を囓る。
ふふ、と声には出さずに笑んで。
瑞々しさを咀嚼し、甘露を嚥下する。
また一口、と口にしようとして。

「あぁ、今年もよく実っているなぁ。実にうまそうだ」

しかし背後から聞こえた声に、手を取られてかなう事はなかった。
しゃり、と手にした果実を囓られる音がする。

「うん。やはりうまいな」

穏やかな声に、硬直する。
一呼吸置いて、じわじわと全身に巡る熱に、慌てたように身を捩った。

「ちょっと、勝手に食べるな」
「いいじゃあないか。少し前までは、儂の膝の上で喜んで食わせてくれただろうに」
「それは小さい時の話だろうに。いつまでも引きずるな、じじい」
「すっかり口が悪くなってしまって。儂は悲しいぞ」

まったく悲しげなそぶりも見せない、笑いを含んだ声音。
さらに熱が駆け巡り出すような錯覚に、耐えきれずに逃れようと暴れ出す。
だがその反応すらも楽しむように、腰に手を回され体を引き寄せられ、いとも簡単に抵抗を封じられてしまう。

「ちょっ、と。離せ、こら。このっ、変態!」
「酷いなぁ。大きくなったら儂のお嫁さんになると、あれだけ言ってくれていたのになぁ」
「だからっ、それは小さい時の話でっ!」

触れている体に、呼吸がうまく出来なくなってくる。
胸の鼓動が忙しなく、巡る熱が動けない体の代わりに暴れ出す。
後ろにいてくれて良かった。今のこの顔を見られずにすんでいるのだから。
恥ずかしくて、うれしくて、死んでしまいそうだ。

「おまえが育てたものは実にうまいな。あやつに引けを取らん。あやつが常世を渡り心配ではあったが、おまえは実によくやってくれているよ」

しゃりしゃり、と果実を食べる音。
合間に囁かれる言葉に、暴れていた熱が勢いを少しだけ殺し、胸の痛みを生み出した。

「寂しくはないか。一人で泣く事はなくなったと聞いているが、我慢はするなよ。溜め込まずに、儂らに吐き出してしまえ」
「別に、我慢なんてしてないし。一人でも、大丈夫だから」

熱が勢いを殺していく。
胸の痛みが強くなり、きゅっと唇を噛みしめた。
恥ずかしい気持ちも、うれしい気持ちも凪いでしまい、虚ろな残り滓が澱みのように溜まっていく。

「強情者め。一体誰に似てしまったのだろうな」

呟く声は、珍しく少し寂しげだ。

「一人にしているからか。それならば」

芯まですべて平らげて、ようやく手を離される。
けれどそれを寂しいと思うより早く、くるりと体を反転させられ、抱き上げられた。
久しぶりに見る変わらぬ姿に、間近で見る顔に、凪いでいた気持ちや熱が再びこみ上げてくる。
澱みが一瞬で流されていくのを感じた。

「なっ!?」
「前のように、儂が世話を焼いてやろうなぁ。食事も湯浴みも任せておくとよい。夜は眠れるまで話をしてやろう」

あやすように揺らされながら、歩き出す。
家に戻るのだろう。懐かしいと、微笑むその横顔に、文句は言えず。

「あやつは母でありながら、子を育てる事にはとんと向いていなかったからなぁ。儂らがおらんかったら、今頃おまえはここにいなかったかもしれん」
「お母さんの悪口は、やめて」

確かにそうではあるけれど、と思いながらも否定する。
仕方がない事だ。人には向き不向きというものがある。
それに、正確には子育てに向いていないというわけでもない。
ただ張り切れば張り切るほどに空回りをして、惨事を引き起こしていたというだけだ。

「それと、まだやる事がたくさんあるから、下ろして」
「収穫ならば、出来るモノが他にいるだろう。たまには休む事も必要だぞ」

それに、と懐かしむように、期待に心躍らせるように、彼は子供のようなきらきらした表情で笑う。

「久方ぶりにおまえの世話が焼けるのだ。儂の密やかな楽しみに付き合ってはくれないか?」
「…ずるい。収穫、楽しみにしてたのに。いやと言えなくしないで」
「ならば、明日は一緒に収穫しようなぁ」

益々笑顔になる彼から顔を背け、小さく馬鹿、と呟いた。
顔が熱い。体の熱が、ぐるりと巡る。

待ち望んだ、年にこの時期だけの特別な瞬間は。
結局は、彼と一緒に過ごす一時の喜びに負けてしまうらしい。

「さて、夕餉は子らに頼んで沢で魚でも捕ってもらうか。最近は食事が疎かになっていたとも聞く。そこはあやつに似らんでくれよ」

歌うような囁きに、肯定も否定もせずに目を閉じる。
とんとん、と背を優しく叩かれ、寝かしつける心地良さに微睡んで。

踊るような鼓動の高鳴りに、気づかれぬように一人笑った。


20241010 『ココロオドル』

10/9/2024, 10:32:54 PM

名前を、呼ばれた気がした。
体を起こそうとするも、指先ひとつ動かせず。
ならばと、声を上げようとするも、掠れた吐息が漏れるだけだった。

それにしても暗い。今は何時頃なのだろう。
随分眠っていた気もするし、全く眠れなかった気もする。
夢を見ていないからかもしれない。
何時寝たのだろう。

そもそも、今は目覚めているのか。
自分は、目を開けているのだろうか。


「手に負えぬものまで対処しろなど、わっちは一言も言っていませんが。一体何をしているのですか」

聞き慣れた声。
したん、と何かを打つ音がした。

あぁ、機嫌を損ねてしまっている。

宥めなければ。
あれは構ってもらえずに、拗ねている時の打ち方だ。
早くしなければと、まだぼんやりとする意識を引き戻すように。

目を、開いた。



「やっと起きましたか」
「ち、とせ?」
「まだ呆けているのですか。わっち以外の何に見えると」

ふん、と鼻を鳴らすその姿に、ごめん、と掠れた声を漏らす。
声がうまく出ない。体が鉛のように重い。
何が、どうして、と混乱する思考で直前の記憶を辿ろうとすれば、しなやかな尾に頬を張られ妨げられる。

「わっちの社に入り込もうとした無礼者の瘴気に中てられたのです。まったく嘆かわしい」

そういえば、確かに境内の掃除中に黒い澱みを見たような気もする。
社に近づいたから、追い払おうとして。
腕を掴まれた後の記憶が、なかった。

「澱み、は?」
「犬に喰わせました。余剰分は切り裂いて燃やしましたが」
「ささら、どこ」
「そこで転がっています。たったあれだけで消化不良を起こすなど、本当に使えない」

そこ、と示された場所に視線を向ける。
視界の隅に、力なく揺れる茶色い尾が見えた。

「穢れが抜けきるまでは、おとなしく寝ている事です。社の管理の礼として、動くまでの世話を犬に行わせましょう」

そこで自ら行わないのが、猫らしい。
力なく礼を述べれば、視線を逸らし尾を揺らした。
ゆらゆらと揺れる尾を見ているうちに、段々に瞼が重くなってくる。

「ここ暫く、お前はよく働きました。ゆるりと休むが良いでしょう」
「でも」

落ちていきそうな意識を、何とか繋ぎ止める。
休むとしても、一日二日で元の通りには動ける訳でもないだろう。
その間に二人の世話や、神社の管理が出来なくなる事が不安だった。

「お前が心配するような事は、何一つありません。さっさと休みなさい」

素っ気ない言葉に、おとなしく目を閉じる。
すぐに訪れた睡魔に、今度は抗う事なく意識を落とした。



「まったく手が掛かる」

男が深い眠りについて、暫くして。
猫の姿をとる神は誰にでもなく呟くと、犬の元へと近づき、爪を出した前足を容赦なくその頭へと突き刺した。
ぎゃん、と小さく鳴いて、文字通り飛び起きる。

「な、何。あ、えと、」
「煩い」

ぴしゃり、と静かでありながら鋭い言葉に、犬は慌ててお座りをする。

「いつまで休んでいるつもりだ。さっさと動け、犬」
「はいっ!」

背筋を伸ばして返事をする。
眠る男の側へなるべく音を立てぬようにしながら近寄ると、枕元へと乗り男の額に前足を触れさせた。
僅かな険しさを浮かべる男の表情が、少しずつ穏やかなものへと変わる。

「それが終わったならば、人の形を取り、食事の準備をなさい」
「人…」
「わっちがわざわざ教えたのだ。出来ぬとは言わせぬ」
「出来ます!ボク、頑張る」

男を起こさぬよう声を潜めながらも、犬は神を見てはっきりと頷いた。
男の役に立とうと、自分から教えを請うたのだ。犬には出来ないなど言うつもりも、思ってさえもいなかった。

「よろしい。なれば、わっちは少し出る。留守中、それに何かあればその首、胴と切り離す故に心する事だな」
「大丈夫。ゴシュジンは守ります。今度こそ、絶対に」

噛みしめるように呟けば、神はそれ以上は何も言わず。
何も出来ぬ己の無力さに歯がみして、神に従い教えられるままに澱みを喰らったその従順さを、少しばかりは認めているからだ。
犬から視線を逸らす。
だが言い残した事を思い出し、振り向かすに口を開く。

「それが目覚めても、寝所からは出さぬように。無理を通すようであれば、眠らせなさい。それには休息が必要です」
「分かりました。ゴシュジン、最近は頑張りすぎてたから、しっかり休んでもらわないと」

今回の事がなくとも、男には休息が必要なのは犬の目にも明らかだった。
家事に、社の管理に、金銭を得るためのいくつかの仕事。
ここ数日の男の忙しない一日を思い返して、犬はしみじみ頷いた。

「社周りの化生を一通り狩り終えたら戻る。貴様にもいくつか残しておく故、後で狩るように」

それだけを言い残し、神の姿がゆらりと揺れて消える。
気配が完全に消えたのを確認して、犬は強張らせていた体の力をようやく抜いた。

「やっぱ、怖い。でも頑張らないと」

存在自体が畏怖するものではあるが、犬に必要だったすべてを請えば教えてくれるほどの優しさはある。

「今度はちゃんと守るから。今はゆっくり休んでね、ゴシュジン」

束の間ではあるが、ゆっくりと休んでほしい。
そのためにも、もっと出来る事を増やしていかなければ、と。
穏やかに眠る男を見て、犬は強く頷いた。



20241009 『束の間の休息』

10/8/2024, 10:42:46 PM

「どちら様でございましょうか」

無感情な眼に見据えられ、どう答えるべきかを思案する。

満ちる月が照らす夜。
辺りには何もなく、目の前の袿姿の幼子以外には誰もいない。

「幼子が斯様な夜半に何をしている?」

問いには答えず、別の問いを返す。
答えが返らぬ事に対してか、それとも問いで返された事に対してか。幼子は無感情な眼を細め、口元に笑みを浮かべた。

「あなた様も幼子に変わりはないでございましょうに。異な事を仰られる」

あぁ、ですが、と、歌うような囁きが、鼓膜を揺する。

「あなた様は先の人のようでございますね。そしてわたくしの呪の残滓が感じられまする」

幼子の言葉に乗せた呪に、体を縫い止められる。
身じろぎ一つ出来ぬ己の頬に、幼子は愛おしげに触れ。

「なれば、あなた様はわたくしのものにございましょう」

作られたものではない、美しい微笑みを浮かべた。

意識が揺れる。
幼子の眼が、声が、触れる熱が、境界を曖昧にしていく。

「お前のものでは、ない」

声を出す。否定する。
強く、力を込めて。
絡みつく蜘蛛の糸を、振りほどくように。

「今の、お前のものではないよ」

言葉を、繰り返す。

「そうでございますね。貴様には、まだ早い」

声と共に、感じる浮遊感。
幼子とは異なる男の腕に抱き上げられ、安堵に力が抜けた。
おとなしく身を委ねれば、幼子の微笑みは消え無感情な眼に見上げられる。


「先のわたくしですか。その姿、母上はお亡くなりになられましたか。あるいは、蜘蛛が滅びたのでしょうか」
「貴様には早いと言うたであろうに。ですが、それに敢えて是と答えましょうか」

幼子の問いに吐き捨てるように答えを返し、酷薄な笑みを浮かべ。
それに気分を害して眉根を寄せたその表情に、かつての彼はこんな表情も出来たのだなと、場違いな事を思った。

「さて、戻ると致しましょうか。これ以上、見苦しいものを見せる訳にはいきませぬ故」
「見苦しい、ですか。先のわたくしは、随分と粗暴になられたようで」
「真の事にございましょうや。己を偽らねばならぬほど弱く、惨めな存在など、見苦しくてたまりませぬ」

随分な物言いだ。
幼少の頃の自身に対して、評価が厳しすぎるのではないだろうか。
眼に怒りを宿し、唇を噛みしめる幼子を見る。
綺麗だと、素直に思う。童女のような身形ではあるが、逆にそれが彼の美しさを際立たせている。
思う所はあるのだろうが、やはり見苦しいなどとは思えずに。
疲労に働かぬ思考で、深く考えもせずに思った事を口にした。

「私はきれいだと、思う。今も、昔も。きれいで、美しい」

動きが止まった。
呆れたように溜息を吐かれ。虚を衝かれたように幼い深縹の瞳が瞬いた。
ざり、と。
土を踏み締め幼子が近づき、腕を伸ばす。
だがその腕は、届かない。
幼子が近づけば、逆にその距離が開いていく。

「何度も言わせないでくださいまし」
「いずれわたくしのものになるのであれば、今のわたくしがもらっても良いではありませぬか」
「戯れ言を。母の骸の下で死んでから、出直して参れ」

ざわり、と風が舞い上がる。
月が歪み、世界が滲む。
くらりと目眩にも似た感覚に目を閉じ縋れば、宥めるような指先が髪を梳き、頬を撫ぜた。

遠くなる幼子の声を聞きながら、またいずれと胸中で束の間の別れを告げた。



目を開ければ、無数の星が瞬く夜空の下、二人きり。

「満月《みつき》。言葉は力を持ちます故、軽率に紡ぐものではありませぬ」

見上げた術師は、何とも言えぬ複雑な表情をしている。
呆れればいいのか、怒ればいいのか、はたまた喜べばいいのか。
様々な感情が入り交じる深縹に、初めて見るなと半ば感心しながら手を伸ばす。
頬に触れ、深縹を真っ直ぐに見返して。

「本当のことを言って何がわるい。満理《みつり》はきれいだ」

力を込めて言葉にすれば、見つめる深縹が柔らかく笑んだ。

「満月には殺されてもいいのかもしれませんね」

歌うような囁きに、意図が見えず困惑する。

「満理、それは」
「土蜘蛛の男は、契った妻に殺されるが定め。私の母はそれに抗い、私を女と偽って育てましたが…ああして母に望まれるままに女に成ろうとする己を見れば、無様としか言いようがありませぬ」
「そんなことはないだろう」

かつての己を嘲り逸れる視線を、頬を包み込む事で遮り。
僅かに見開かれた目を見据え、口を開く。
傷つき壊れ、頑なになった彼に届くよう、言葉に思いを乗せる。

「なんどでも言おう。満理はきれいだ。母のために生き、主のために生きた満理のその様を。その想いを、私は何よりきれいだと思う。それは満理があいされてきたことを示すものだからだ」

息が切れる。
体が重く、力が抜けていく。

「つかれた。なんだ、これは」
「術師でなき者が、軽率に言葉を紡ぐからにございましょう。自業自得です」

呆れたように息を吐き。
だが、だらりと腕が落ち弛緩する体を、抱きしめられる。強く、力を込めて。けれど壊さぬように、優しく。
離れぬように。

「愚かな満月。暫し眠りなさい。何も視えぬ程、深く」

促され、見つめる深縹が揺らぐ。
落ちていく意識に、抗う事なく目を閉じる。

「私の箱庭を照らす月。籠から逃げ出し蜘蛛の糸に絡め取られた、憐れな雛鳥よ。兄弟に飼われていた方が、幸せでしたでしょうに」

けれど。
哀しい響きを纏うその声に、目は開けぬままに口を開く。

「ばかな満理。私がえらんだんだ。私のしあわせを、かってにはかるな」

呟いて、意識を落とした。



20241008 『力を込めて』

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