遠くで獣の遠吠えが聞こえる。
それまで薄雲が空を覆い、陰鬱な夜の世界だったのに。ごうと上空の風が一際強く吹くと一気に雲が開いた。辺りが白銀色に染め上がっていく。
魔力の高まる夜の世界と誰が言ったんだろう。昼も夜も関係ない。
衣服は破れ、髪も乱れ、ただ1人空に手を伸ばす小さな魔族は、この世界の均衡を正そうと生命を削っている。風が吹いてまた夜が明るくなる。
街の子供は寝ただろうか。このように明るくて、人々は不気味に思うかもしれない。
私だけは綺麗だと思った。あの人の背中は必死に鍛えた跡があるけど、まだ小さくていじらしい。守ることが出来ないだろうか。そう思った瞬間、仲間の声を振り切り、私は石畳をはしりだした。
電流のような抵抗を感じながら、彼に近づく。風に揺らぐ身体を抱きとめて、覚悟を決めた。
「一緒に背負うから」
たぶん気配に気付いていたんだろう。優しい面差しはゆるりと振り返る。
何を怖がっていたんだろう、小さな頃と何も変わらない。私があなたを守ってあげなきゃいけない。だってあなたの2個お姉さんなんだからね。
月夜
背中に生えた羽はまるでコウモリのようで、人間ではないけど、神に創造された生物にも見えない。6対の不思議な生き物…。
まだ少年の身体に、不釣り合いなほどに大きい魔族の翼だった。羽ばたく度に嫌な空気を周囲に巻いている。これが瘴気なのか邪気なのか魔力なのかは分からない。
だが隣に立つギールスには明らかな焦りが見えた。
「なんで…」
カノンはそれだけ声に出し、後の気持ちはぐっと抑え込む。荒々しい魔界の風と荒れ果てた大地は世界の終わりのようでもあった。
「ずっと一緒だったよな」
ヴィルが変声期を終えないいつも通りの掠れた声で言う。
「おれたち生まれたときから。なんでお前ばっかりなんだろうな」
嫉妬の目だった。赤く染まっている。来る…そう思った時には、彼の右手は振り下ろされていた。
「離れろ!」
ギールスに促されたまま後ろに無様に飛ぶと、岩場が飛び散り破片が飛んできた。
石が頭を掠め皮膚を裂いていく。
守るものがいない。それは逆にカノン自身も強くなれたし、暴走するきっかけにもなった。
魔法がほとんどないカノンのために何年も掛けてしつらえた短剣を取り出す。
「そんなんでどーする気?俺と戦えるの?」
ヴィルはにこにこ嘲ってくる。
「戦うんじゃない、戦うために来たんじゃない」
「おきれいなこって」
次から次へと衝撃波が飛んでくる。刀と小さな魔力で受けて流していく。
(傷つける物を持つときは傷つけられる覚悟を。持つものは、持たざるものを守るべし)
港町の銀細工師はそう言って鞘ごと持たせてくれた。
あれ、ちょっと待った。この剣…最終的に誰が持ってきた?
(ヴィルだ)
小さな蒼く光る刀身を見て青ざめる。
(まさか)
カンッと硬いものが落ちる音がする。
遠くで避けながらギールスが怒っている。
「正気か!すぐに拾え、童心などもう捨てろ、やつはそれで揺さぶるのがうまいのがなぜわからん!」
強い気流をギールスが太刀を浴びかせて打ち消す。
「こい」
「いいね。まずは邪魔なのを消そうか」
意気消沈したカノンの前に黒髪の剣士が立ちはだかる。ギールスはにやりとまだ余裕の笑みだ。彫り深い顔に冷たい面差しだが、それが嫌みに見えないから、本来は人の醜美のうちでは美形な顔…に当たるのだろう。
本人にその気はないだろうが。
「俺の実力を知らんのか?」
「知ってる。おっかねぇの。だから距離を取ってる」
いくつもの衝撃波を生みながら、ヴィルの背後にはスパークした赤黒いエネルギーが蓄積されていく。
絆
父親の髪色に、母親である私のくせ毛がふわりとついた小さな男の子はとにかく元気で、毎日村中を走り回っている。よく働き、よく笑う。今日もホビットや魔族の子供達と一緒に畑で泥だらけになって手伝っていた。
遠くからでもよくわかる。彼の周りで妖精の通った帯がきらきらと光っているのだ。彼のそばには妖精がずっとそばにいるのね。
私も昔は小さなお母さんと笑われたこともあったけど、温かい村の人々のおかげでなんとかやっている。
産んだ時、何歳だっけ。18歳…?
時が経つのは早いもので、今では仲間のティーエと元気に喧々囂々。家の中にまで丸聞こえなんだけど。
たまには
赤ん坊が動ける年齢になれば、畑仕事を手伝い、やがて家や冬の間の内職をやり、年下の子守をする。そして年頃になれば出稼ぎにいく。家庭を半ば強制的に作らされ、半年に一度帰ることで縛り付けるんだ。
それが娘だった場合。女余りだった場合。
彼女達が村に帰ってくることは稀だった。
つまりそういうことだ。
ひなまつり
ヴィルは手先が器用で、耳が良くて。よく村にくる動物や魔物の襲撃を事前に察知していた。
途中で出会った冒険者が「俺の職はまぁ盗賊みてえぇなもんだ」と言うものだから、なぜか影響されて盗賊なんて自らを名乗ったり…。
たぶんあの人はトレジャーハンターとか斥候とか罠掛け師とか、そういう類なんだと思うんだけどな。
「ヴィルも馬鹿な奴だ」
小さなゴブリンをいとも容易く打ち捨てて、刃が劣化するのを防ぐよう浄化の精霊を呼んでいる。正直ここまで色々と(人間的に)不器用なのに、地と水という最悪な相性の精霊を使いこなす森の民というのは聞いたことがない。
カノンの目には、嬉しそうに飛び回る精霊たちが最後に笑い合って空気に溶けていった。子供の高い声で耳につくけど、きっと自分たちも数年前はこんな感じだったんだろうな。
「残り香を使い、追いかけてくるように誘っているぞ。正気とは思えん」
「やめてくれよ…。そんな器用なやつじゃない」
小さな声で抗議する。
「なぜだ。お前たちは窮地に陥っても奴の肩を持つ。吐き気がするな。それが人間なのだとでもか言うつもりなのか」
「そういうのじゃなくて…」
カノンも両手に魔力を込め始める。二重三重になった障壁がずいぶん遠くまで飛ぶ。森のいくつかの地点でカチリと生命反応があった。
たった一つの希望