わをん

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5/18/2024, 11:58:48 PM

『恋物語』

おばあちゃんには推しがいる。
「この前デビュー20周年コンサートに行ってきてね、それが最前列だったのよぉ。お友達と一緒にきゃあきゃあ騒いで、これで長生きできるわねぇなんて言っちゃってねぇ」
もともと演歌が好きだったおばあちゃんはある日彗星のように現れた若手演歌歌手に心奪われる。おばあちゃん齢60の頃であった。
おばあちゃんの推し活動を見守っていたおじいちゃんはその演歌歌手に興味はなかったけれど、いい歌を唄う奴だと認めてはいたようだ。そんなおじいちゃんはデビュー20周年を見届ける前にこの世を去っている。先立たれて気落ちしていたおばあちゃんは推しのおかげで立ち直ったと言っても過言ではない。
「おじいちゃんがいなくなった年は悲しくてしかたなかったわねぇ。だからかしら、喪が明けてからのコンサートはそりゃもう骨身に染み渡ったのよぉ」
喪中の年を除いた19年、毎年欠かさずコンサートに足を運ぶおばあちゃんは齢80とは思えないほど若くてかわいらしい。
「最近思うのよ。私あの人に恋させてもらってるって」
20年に渡るおばあちゃんの恋物語はこれからも続いていく。
「この前コンサート会場でうちわ振ってる人見かけたの!私も真似してみようかしらねぇ」

5/18/2024, 12:21:14 AM

『真夜中』

日付けを越えても眠れない。スマートフォンを弄ろうかとも思ったが余計に眠れなくなるのでやめておく。静かな寝室に音を立てるのは寝返りで起こる衣擦れと自分のため息。寝るのがずいぶんとへたくそになってしまった。寝付きがいいねと言われていたのはずいぶんと昔のこと。
思い悩むことがなかったこどもはいろんなことに思い悩む大人になった。昔の後悔、今の不満、先への不安。思い巡らせるこの時間をやめられればと思っているけどやめ時がわからない。
窓の外から救急車のサイレン。我に返って時計を見てはまだ夜は長いとため息を吐く。

5/17/2024, 6:15:14 AM

『愛があればなんでもできる?』

愛とはなんだろう。牢屋に入れられいつ始まるかわからない処刑を待ちながらいつしかそんなことを考えていた。
私がここに入るに至ったのは在籍する学園でちやほやされていた転校生の聖女とやらに執拗な嫌がらせをしていたため。女は私の知らないところで同級生であった王太子の伴侶となっており、そのために私のしでかしたことが明るみになったとき、罪の重さは王族への謀反と同等となった。
私は王太子のことを愛していたし、愛していると返されたこともある。
「愛する君のためならなんだってできるよ」
かつて胸を焦がした言葉は今や寒々しいばかり。同じ言葉をあの女にも投げかけていると思うともはややるせなさしか沸いてこなかった。
「ここから出たいか?」
誰もいないはずの牢屋の隅からぼんやりとした人影に声を掛けられる。幻覚が見えてきたのだろう。
「ええ、出られる手筈があるのなら」
「お前が私を愛してくれるなら、そのようにしてみせよう」
“愛する君のためならなんだってできるよ”
言葉は違えど同じことを言われている。おかしな幻覚もあったものだ。
「わたくし、愛は幻だと一度は知った身ですの。傷ものでよろしければ、口づけをどうぞ」
影に近づき抱擁と口づけを交わす。すると人影はみるみると影を濃くして声を上げた。どうやら歓喜の叫びのようだった。次の瞬間、人の手ではありえない力で牢屋の格子がくにゃりと曲がった。驚いた私の手を影であったその人は手に取り尋ねた。
「望み願い給え、愛する人」
それまで死を待つだけだった身に降って湧いた人ならぬ力は野望を抱かせるには充分過ぎるほどだった。
「愛するお方。この国を滅ぼしましょう」

5/16/2024, 4:04:47 AM

『後悔』

傍にあるのは身に宿った治らない病気。やがてどうなるかは決まっているけれど、残り時間がわかるのは少しだけ良いことのように思える。
取り返しのつく後悔と取り返しのつかない後悔があって、今は取り返しのつく方をどうにか解消しようと日々を送っている最中。なにをするかといえば、それは謝ること。あのとき気にかけてくれていたのに何も返せていなかったのを謝った。ずっと借りていたものを返せていなかったのを謝ってちゃんと返した。人のせいにして自分が悪いと思っていなかったのは間違いだったと謝った。人によって反応はさまざま。もう気にしてないよ。わざわざ来てくれてありがとう。こっちも悪かったよ。
後悔を減らしていくと自分がいかに意地や見栄を張っていたのがよく分かる。なにをそんなにこだわっていたのだろう。自分の中身がないことが今では身軽だと笑うこともできる。
取り返しのつかない方とはこれから先も付き合っていくことになる。ひどく傷つけてしまってもう会いたくないと言った人。それからもうこの世にいない人には謝っても届いているのかわからない。今までやってきたことがもたらした後悔は自分を何度も突き刺すことになるのか、それともいびつにも心の支えのようになってくれるのか。ほんのりと楽しみのようなものを感じながら、時間と向き合っていく。

5/15/2024, 4:04:34 AM

『風に身をまかせ』

多くの帆船が停泊する港町に船乗りたちが立ち寄ってからかれこれ一週間が経とうとしている。道に面した露天酒場で明るいうちから酒を煽る男に少年が尋ねた。
「おじさんたち、まだいるの?早く船乗りなよ」
「何だよボウズ。俺らがここに来た時は目ぇ輝かせて話をせがんだくせに」
「お話はどれもみんなおもしろかったよ。けど町の人たちがお酒や食べ物がどんどん無くなっちゃう、って心配してたんだ」
「そうは言っても俺ら風に身をまかせるタチだからよ、風が吹かねぇとどうにも動けねぇのよ」
そう言ってワインの瓶を煽る船乗り。酒場には同じようにやることもなくくだを巻く男たちで溢れ返っていた。すると遠くからなにやら声を張り上げて走ってやってくるものがいる。
「野郎ども!出航だ!」
やってきた男はそれだけいうと走り去り、一軒隣へ、また隣へと次々声を放ちながら遠ざかっていった。男の一声で今まで生気の薄い目をしていた男たちには火が灯っていた。
「おじさん、あの人誰?」
「うちの船長さまだよ。航海士からいい報せを受けたらしい」
カウンターに酒代を次々置いて酒場をあとにする船乗りたち。満員だった酒場はもぬけの殻となり、店主は心底ほっとした顔をしていた。
少年が港を眺めると今まで骨のないようになっていた男たちがきびきびと船で働いている。頬に風を感じたように思えて空に目をやると帆船の向こうにカモメたちが悠々と空を舞っていた。

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