記憶
『あなたがいない』、それだけをずっと覚えている。
水面に映った柳の木に誘われて、月の出た夜、川に入った。ネグリジェが水を吸って、肌に張り付くのを感じていた。
もう一歩、もう一歩……。ふくらはぎ、ふともも、腰、胸、肩。歩くごとに、水位は増した。
顎の下まで水に浸かって気がついた。
この川はさほど深くなかったはず。子どもたちがみずあそびをしにやって来るほど穏やかで、今みたいに流れに押されたりしないはず。川辺に柳なんてなかったはず。
はず、はず、筈……、本当は覚えていたはず。
『あなた』なんて、初めからいなかった。
記憶にない川の中を歩き続けて、気がつけば海に出ていた。
月があまりにも輝いているから、夜空の星はおろか、振り返った街の明かりすらも見えなかった。
いや、違う。あれは月じゃない。『あなた』だ。
沖のほうへ歩み進めた。いつしか体は浮き上がり、肩、胸、腰、ふともも、ふくらはぎ、次々と海面から姿を現した。それでも上へ昇っていく。手を、高く伸ばしている。
『あなた』に指が触れた、とたん、とぷん。
指先が崩れて海に落ちた。
もう一度手を伸ばす、触れる、崩れ落ちる。繰り返すうち、とうとう腕がなくなった。
やがてほとんど全てが崩れ落ち、唇だけが残った。『あなた』に口づけし、とぷん、海に沈んだ。
ーーーーそんなあなたの姿を、わたしは眺めていた。
『あなた』なんていないのだと、あの日、わたしはあなたを笑った。
今ならわかる。わたしも『あなた』に会いたい。記憶にない、存在しない『あなた』に。
だから、あなたにお願いします。わたしが『あなた』に会いに行く一部始終を、どうか見守ってほしいのです。そうしてできる限り長く記憶に留めておいてください。
そうすれば、あなたもいずれ『あなた』に会いに、わたしたちと同じことをするでしょうから。
花の香りと共に
ある、とても寒い日のこと。
駅前とはいえ客足も外を歩く会社員たちも少なくなって、そろそろかと閉店作業を始めたところへ、ひとりのお客さんが店に入ってきた。
風に煽られたのか髪は崩れていたけれど、トレンチコートと大きめのショルダーバッグ、キャンパス風スニーカーはきちんとその人に合っていて、顔がというより雰囲気が綺麗な人だった。目元は疲れているようで、だけど表情はそれほど暗くはなかった。
その人が店の扉を開けた瞬間、花屋特有のみずみずしいような土っぽいような匂いが外気に冷やされた。いらっしゃいませと声をかけると、小さく会釈をされた。こじんまりとした仕草だった。
その人は少し店内を見て回って、黄色い花を1束手にとった。しばらく花を見つめて、やがて柔らかに微笑んだ。
これ、いただきますと振り返ってカウンターへ歩いてきたので、慌ててレジにまわった。
その花は確か、フリージアだったと思う。
私はあの日がアルバイト最終日で、花屋最後のお客さんだったからよく覚えている。
そのお客さんが帰られて、再び店の中が花の匂いに包まれたころ、店長が奥から出てきてそろそろ閉めようかと言った。
私は店長から最後のお給料をいただいて、ありがとうございましたと頭を下げた。それは「今までお世話になりました」と「最後にあのお客さんに出会えてよかったです」のふたつの意味が含まれていた。
今はもう、私も周囲のサラリーマンと同様に、毎日スーツを身につけ電車で出勤する生活を送っている。花屋の中から眺めた退勤ラッシュの光景のなかに紛れて、まるで何の特徴もないみたいに。
だけどあの花屋の前を通るたび、冬の風のなかに黄色い花を見かけるたび、みずみずしいような土っぽいような花の香りと共に、フリージアと一緒に帰っていったトレンチコートの後ろ姿を思い出すのだ。
君を探して
駅の掲示板に、今まだ生きているのかもわからないような指名手配のポスター。現在の予想似顔絵なんて描かれても、見つかりっこない気がしてしまう。
……被害者の方々に対して非道い感情だ。それもこれも、こんなやりきれない社会がいけないんだ。
心なんて、もうとっくに何処かへいってしまった。
今朝もそうやって掲示板を横目に改札を通ろうとしたとき、ふと真新しい貼り紙が目に入った。
『wanted』
写真はなく、黒い人型のシルエットがあるだけ。
よくよく近づいて読んでみると、
『懸賞金付き! 生死問わず!(蘇生可能なため)
一早い発見が重要です。情報求む』
『君の心を探してください』
透明
あたしのこと、好き?
好きならちゃんと、そう言って。恥ずかしがらないで全部見せて。
ズルイよ。あなたにはあたしの全部が見えてるくせに。
透明人間だからって、心まで透明にしないでよ。
願いが1つ叶うならば
それは突然で、とても儚い瞬間だった。
「もしもひとつだけ罪が許されるなら、あいつを殺したい」
彼女は、かすれた声でつぶやいた。すぐ横の車道を走るトラックに、危うくかき消されてしまうほどの音量で。
あいつ、というのが誰かはわかっていた。
彼女の後ろの席の、とても自分勝手な人。彼女を、いじめているともとれる人。わたしの隣の席で、わたしも怖くて何も言えずにいる奴。
なんて答えればいいかわからなくて、「そっかあ」とだけ頷いた。静かな帰り道だった。
翌月に席替えが行われた。
わたしと彼女の席は少し離れ、彼女とあいつはほぼ正反対に位置づけられた。
『ごめんね』。それが言えないまま時が経ってしまった。
今も頭をよぎる、彼女の表情。苦しそうに、憎らしそうに、悲しそうに「殺したい」と口に出したとき、どんな心地がしたのだろうか。
だから神様、もし願いが叶うのならば、わたしに勇気を与えてください。
彼女を傷つけたあいつに、最大の報復をくれてやる勇気を。