寿ん

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記憶


『あなたがいない』、それだけをずっと覚えている。

水面に映った柳の木に誘われて、月の出た夜、川に入った。ネグリジェが水を吸って、肌に張り付くのを感じていた。
もう一歩、もう一歩……。ふくらはぎ、ふともも、腰、胸、肩。歩くごとに、水位は増した。

顎の下まで水に浸かって気がついた。
この川はさほど深くなかったはず。子どもたちがみずあそびをしにやって来るほど穏やかで、今みたいに流れに押されたりしないはず。川辺に柳なんてなかったはず。
はず、はず、筈……、本当は覚えていたはず。

『あなた』なんて、初めからいなかった。

記憶にない川の中を歩き続けて、気がつけば海に出ていた。
月があまりにも輝いているから、夜空の星はおろか、振り返った街の明かりすらも見えなかった。
いや、違う。あれは月じゃない。『あなた』だ。

沖のほうへ歩み進めた。いつしか体は浮き上がり、肩、胸、腰、ふともも、ふくらはぎ、次々と海面から姿を現した。それでも上へ昇っていく。手を、高く伸ばしている。

『あなた』に指が触れた、とたん、とぷん。
指先が崩れて海に落ちた。
もう一度手を伸ばす、触れる、崩れ落ちる。繰り返すうち、とうとう腕がなくなった。

やがてほとんど全てが崩れ落ち、唇だけが残った。『あなた』に口づけし、とぷん、海に沈んだ。

ーーーーそんなあなたの姿を、わたしは眺めていた。

『あなた』なんていないのだと、あの日、わたしはあなたを笑った。
今ならわかる。わたしも『あなた』に会いたい。記憶にない、存在しない『あなた』に。

だから、あなたにお願いします。わたしが『あなた』に会いに行く一部始終を、どうか見守ってほしいのです。そうしてできる限り長く記憶に留めておいてください。

そうすれば、あなたもいずれ『あなた』に会いに、わたしたちと同じことをするでしょうから。

3/26/2025, 2:31:44 AM