寿ん

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3/1/2025, 9:46:36 AM

あの日の温もり


お父さん指、お母さん指、お兄さん指、お姉さん指、赤ちゃん指、そしてこれは?
子どもって冷酷だ。排他的だ。暴君だ。
わたしのもう一本の指を、何故そんなに気味悪がるの。

だから、その日も俯いて帰っていた。とぼとぼ歩いていたら雨が降ってきて、わたしはみんなが嫌う六本指の手で傘をさした。
四つ角を横切ろうとしたとき、傘がぼんっと何かにぶつかった。顔を上げると、背の高い人が立っていた。あんまり高いから顔は見えなかった。
その人は少し身をかがめて、わたしの手の上から傘の柄を握った。ありえないほど優しくて、何故だか涙が溢れてしまった。

柔らかく涙を拭ってくれたあの人のことを、今も思い出す。その人が手を離してのたのたと去ってから、みんなと同じ五本指になっていたこの手を見つめるたびに。
どこの誰だか、なんてわからない。
だけどもう一つ覚えているのは、頬を撫でたあの手にはたくさんの指があって、それがとても温かかったこと。

今ならわかる。きっとあの人は、わたしみたいな人をたくさんたくさん救ってくれていたのだと。
高すぎる背丈、下がらない熱、治らない歩き方、人より多い指……。それらを一手に引き受けて、滑稽な足取りで世界をまわっているのだと。

あの日から、わたしにあったもう一本の指は周りの誰の記憶からも消えた。
あの日から、わたしにあった温もりは指一本分減った。

どうかどうかと願うのは、あの人に託した温もりが、他の誰かを温めてくれますように、ということなのです。

2/25/2025, 3:20:13 AM

一輪の花


前略

先生、ずいぶんご無沙汰しています。
先生はお変わりありませんか。ご家族もお元気でいらっしゃいますか。

実は先日、駅であなたをお見かけしました。橋本の近くの駅です。

その日はとても疲れていて、もう何も考えられないと思っていました。夕飯も、もしかしたら食べないつもりだったかもしれません。
だけどあなたがホームに並んでいるのを見て、ああ、先生だと思いました。それで、今日帰ったらちゃんと掃除をして、ご飯を作って、入浴剤を溶かしたお風呂に入ろうと思ったんです。

わたしは先生のいらっしゃる列とは違うところに並んでいましたから、先生はお気づきになられなかったでしょう。
それでいいのです。

王達の駅に着いたとき、ふと、閉店間際の花屋が目に入りました。
もうお花は少なかったけれど、つい立ち寄ってみました。

フリージアという花です。そのときのわたしにはその黄色がとても素敵に見えて、一輪、買ってみました。暗い家路に、明かりが灯ったようでした。

先生、あなたがあの日、どんな思いでおられたのか、わたしにはわかりません。
だけど、これだけはどうしても伝えなくてはいけないと思うのです。

あなたのおかげで、わたしは今、幸せです。
と。

草々

2/21/2025, 2:57:23 PM

夜空を駆ける


太陽が沈めば、俺たちの世界。
月を覆い隠すほどに、流星さえも追い越すほどに、俺たちは自由になれるんだ。
赤く回るサイレンを嘲笑う。無力に発砲される銃弾に同情する。お縄につけ、だ?
誰がついてやるかよ、ばあか。
俺たちは自由だ、自由だ、自由だ!

カチッ。
どおぉ……ん。

それは一瞬の出来事だった。
ああ、ミスっちまった。仲間と顔を合わせる。
わりぃな。ここまでだ。
高価な美術品も木っ端微塵に砕け散る、玉砕覚悟の捕獲作戦。まんまと引っかかった俺たちは、自然と笑みをこぼした。
楽しかったぜ、来世でまた会おうや。
無言で、互いのこめかみに銃口を当てた。

ぱあんと弾けて、俺たちの破片は夜空を舞った。
いい気味だぜ、なあ? 俺たちは自由だ、自由だ、自由だ!!
世界の地も空も駆け回って、生きた。そう、生きていたんだ。わかるか?

今夜、お前が見上げる空を駆けるのは流れ星なんかじゃない。俺たちの血肉さ。

2/20/2025, 3:44:09 AM

あなたは誰


わたしは寿ん。「ことぶきん」じゃなくて、「じゅん」と読みます。

……呼び方?どう呼んでもらっても構いませんよ。なんなら、「ことぶきん」でも別にいいんです。
こだわりは特にありません。

あなたに呼んでいただけること、それが嬉しいだけなのです。

2/15/2025, 1:24:33 PM

君の声がする


「好きになってごめんね」
別れ際、君はそう言って笑った。
俺にはわからない何かが、きっと君の心にあったんだろう。
「−−−あの、さ」
思わず引き止めてしまったのは、たぶん、そういうことだ。
「ごめん。……ありがとな」
君はちょっと目を丸くして、それからみずみずしい目を細めて
「ん」
とだけ頷いた。秋の風がふたりのあいだを吹き抜けていった。
君はまた前を向いて歩き出す。その背中が震えるのを見てられなくて、俺もまた早々に背を向けた。
少し歩いて、君の声がした気がした。振り返ると、君の姿はもうなかった。
俺は前を向く。君がそうしたように。
そして、もうじき背中を震わせて声を押し殺して泣くのだろう。君が、決して俺に見せなかった姿を。

もう君の声はきこえない。

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