この世には未だ正解は無い。しかし、結論は在る。人生に於ける一切の契約は余すことなく無責任なものだが、それはこの世界それ自体の放任主義に由来するものであり、体の良い楽観主義が幅を利かせる理由でもある。
人が意味もなく産まれ、意味もなく悲しむのは、事実、主君の罪業を肩代わりしているがためである。
これに関して、楽観的であるということは、時に痛罵の良質な糧になることをも許容するが──しかし。無知ほど高貴な知能を、私は他に知らない。
き、君のことが、す、す、す…ツゥキ……なんだってんだよ! だ、ダァァァァ!! それ以上意味はないんだっつぅのおォ!! な、なんだってんだよォ、その汚物でも眺めるような目はァ! だ、ダァァァァ!!! キャ、キャロー! わかったってんだぁよぉ! 言うよ! いやァ良いんだろう! ッたくゥ…よく聞いとけよってんだ! き、君のことが…す…す……ッッッて! こんなこと言えるわけがねェだろうがぁよおォォォォ!
これは、僕の物語です。
ちょっぴりお茶目で内向的な君と、学園一の人気者の僕が繰り広げる──まるで月と好きとの関係のような、甘酸っぱい物語です。
…てッ! だ…ダァァァァ!!!
こんな話! 聞いてねェッッつうのォォォォーーー!!!!!
8月31日の午後5時は、新横浜駅に居た。日産スタジアムに向かうため
日常を生きるのではなく、日常に生かされているという感覚に囚われる。この時、時間はさほどの意味を持たず、ただ再生と破壊の一形式としてそこに存在するのみだ。
今この一瞬において生を全うし得る者というのは、何事かに陶酔しきり我を忘れる者ではなく、何事かにつけ言及を避けられない者の事を言う。充実とは、厄災との対話である。逃亡とは、厄災への謙遜である。
最近のSNSを見てると思うのが、皆揃いも揃って感性が欠落してしまっているのではないかということ。ああ言われればこう言い返す…剰えその悪罵の定型文が有効なものだと、つまりそれを言うだけで自分が優位に立てると思い上がっている間抜けが多すぎる。
その中でも愚かしいのが「主語が大きい」という言葉で、そもそも現代SNSで流行っているこの言葉の意は誤用なのだが、人々は嬉々としてこれを使用している。本来、主語が大きいとは、私見をまるで世論の如く話すこと、要は「私はそう思っている」と言うべきところを「皆はそう思っている」と言い換えること。しかし現代SNSでは、例えば「女性は美しい」という言説に対してこれを用いる。そもそも主語述語の問題もあるわけだが、私からすればこれは浅薄極まりない反論である。一体どこの誰が女性は美しいと言われて、遍く女性は悉く、一切の例外なく美しいと解釈するのか。確かにショーペンハウアーも過剰な省略を忌避していた印象があるが、あれは何も全ての事象を全ての言葉で説明し切るべきということではなく、正しい文章はそれだけで一切を語っているのだから、わざわざそれに傷をつけるようなことをするなと言っているのだろう。
それ故もし今後、安易に主語が大きいという言葉を使う者がいたら、その者は読解力や想像力に欠ける、コミュニティ内において地位を獲得した流行り言葉(それも破綻した)でしか会話のできない、しかし反復という才能だけは異常開花した意思のない置物として愛でてやらねばならない。
あらゆる創作家が歴史の積み重ねによる作品の類似に関して労力を費やしているというのに、言語だけがそれを蔑ろにするというのも恥知らずな話。