行かないでと願ったのに、彼は行ってしまった。
僕の名前はロサンゼルスクリッパーズ。未だ優勝経験の無い、ろくでなしさ。
題:拝啓ドジャース僕を置いていくな
生きたいと願いながら死ぬより哀れなことはない。死にたいと願いながら生きるより愚かなことはない。人間を個性的に並べ立て、そこにある種の芸術性を見出すというのなら、私はその羽を悉く毟り取ってやる心積もりだ。どういう理由があるにせよ、私より愚かな人間などいてはならない。
全人類を凌駕する不幸の持ち主であること。最早私の気概というのは、ただその一点に限られるのである。
震えは、可能な限り複合的であるべきだと思う。冬の朝が清々しいのは、冷気が私達の外側震えさせてくれるからであって、真意に気づくことがないから。対して春の陽気など何一つとして私達に関わり合おうとしないから、まあ簡潔に言えば、そりゃあ死にたくなるわな。希死念慮とかいう偉ぶった言葉じゃなく、純粋な、極個人的な提案として。
沈黙は金と言葉を選び、冷静と論理性を心がけ常々懸命であろうとするような人間よりも、激情に支配された癇癪持ちの娼婦の方がよっぽど信頼に値する。tiny love? 知るかボケ
絶対的な孤独、宇宙からの孤立、社会からの逸脱、それらは全て幻想であり、人間として産まれたからには人間というコミュニティから脱することは不可能である。もしそれらが達成されたと言うならば、それは超常的な力が用いられたと思わざるを得ない。人は一人では生きていけない。当たり前だろう。落伍者は個人関係に於いての異分子として人々の周囲から突き放されるだけであって、社会から爪弾きにされる訳ではない。社会から疎まれながらも、社会の外へと排外される訳でもない。弱者は彼らの奴隷として、体の良い優生思想に付き合わされるだけの存在でしかない。
善人のもてなしが孤独者の心を慰めることはないし、それを否定するつもりもないが、そうしたところで時間の無駄であるというのは言っておきたい。人に期待などしていないと言えば嘘になるが、人を望んでいないかと聞かれれば否定は出来ない。孤独である以上に恵まれたことなどないし、それを手にするためならば、時には人と関わり合いになるという選択肢を取るつもりでもいる。
絶対的なまでに孤独でいれたら、とよく考える。己が感情に他者を介入させることなく、延々と自己完結を繰り返していたいと強く願う。しかし、そんなことは不可能だと理解してもいる。孤独の表すところには、他の一切の感情からの切断も含まれる。人は、他人なしでは泣くことすら叶わない。
超常的孤独には、涙さえもが付き添わない。