日常を生きるのではなく、日常に生かされているという感覚に囚われる。この時、時間はさほどの意味を持たず、ただ再生と破壊の一形式としてそこに存在するのみだ。
今この一瞬において生を全うし得る者というのは、何事かに陶酔しきり我を忘れる者ではなく、何事かにつけ言及を避けられない者の事を言う。充実とは、厄災との対話である。逃亡とは、厄災への謙遜である。
題とは関係のない愚痴…
最近のSNSを見てると思うのが、皆揃いも揃って感性が欠落してしまっているのではないかということ。ああ言われればこう言い返す…剰えその悪罵の定型文が有効なものだと、つまりそれを言うだけで自分が優位に立てると思い上がっている間抜けが多すぎる。
その中でも愚かしいのが「主語が大きい」という言葉で、そもそも現代SNSで流行っているこの言葉の意は誤用なのだが、人々は嬉々としてこれを使用している。本来、主語が大きいとは、私見をまるで世論の如く話すこと、要は「私はそう思っている」と言うべきところを「皆はそう思っている」と言い換えること。しかし現代SNSでは、例えば「女性は美しい」という言説に対してこれを用いる。そもそも主語述語の問題もあるわけだが、私からすればこれは浅薄極まりない反論である。一体どこの誰が女性は美しいと言われて、遍く女性は悉く、一切の例外なく美しいと解釈するのか。確かにショーペンハウアーも過剰な省略を忌避していた印象があるが、あれは何も全ての事象を全ての言葉で説明し切るべきということではなく、正しい文章はそれだけで一切を語っているのだから、わざわざそれに傷をつけるようなことをするなと言っているのだろう。
それ故もし今後、安易に主語が大きいという言葉を使う者がいたら、その者は読解力や想像力に欠ける、コミュニティ内において地位を獲得した流行り言葉(それも破綻した)でしか会話のできない、しかし反復という才能だけは異常開花した意思のない置物として愛でてやらねばならない。
あらゆる創作家が歴史の積み重ねによる作品の類似に関して労力を費やしているというのに、言語だけがそれを蔑ろにするというのも恥知らずな話。
以上愚痴でした。
おなら
おナラ
おなラ
おナラ
おなら
個人は、一個人として内的に活動する場合、全人類を滅ぼす爆弾へと成り上がる。生物の特権であり、また生物には辿り着けないあの世界へと、全宇宙を巻き込みながら行く事が出来るのである。
そこに死者が居るのなら、宇宙の中の一つが亡くなったのではなく、一つの宇宙が亡くなったと考えてみる。自分は他者の所有物であり、また、彼らも自分の所有物であると考えてみる…。
もはや生と死は徒党を組み、生きる意味が正しくそれらを否定すること一点にのみ集中するようなら、少しだけ、ほんの少しだけでも長い間、生きてみるべきだ。
君が今、何かを終わらせようとしているのなら、こう考えてみるべきである。即ち、人生は生き死にとの対話に過ぎず、欺きの手法において、長話というのは結末がちんけであればあるほど、絶大な効果を齎すと。