「まだ知らない世界」
貴方と初めて喋ったのは、2年前の冬のことだった。
21時過ぎ、塾終わり。
この時間、貴方は塾からの帰り道にある自動販売機にもたれかかり、地べたに座りこんでいた。
肩ぐらいまで伸びた金髪に、いかにも不良のような格好で、暗闇の中、不自然なほど明るい自動販売機のそばで、とても目立っていた。
ある日の貴方は、いつもと様子が違った。
はあはあと肩で息をしており、遠くからでも頭から血を流しているのが分かった。
関わったらいけないとさすがに感じたが、無視できなくて「大丈夫ですか、?」と声をかけてしまった。だが、返事はなく、強く睨まれただけだった。
怖くなって、手に持っていたミルクティーをそばに置いて「これ、まだ飲んでないので良ければ」とだけ言って走って逃げた。
1週間後、久しぶりに見かけた貴方は、自動販売機のそばに立ってきょろきょろ誰かを探しているような素振りを見せた。
すると目が合い、私の方へ近づいてきた。
やばい、不良に目をつけられたと焦ったのも束の間、
「前はありがとう」とぶっきらぼうにお礼を伝えられた。そして、奢られたままなのは悪いからと、ミルクティーをくれた。
そばの自動販売機で買ったのか、まだ温かかった。
それからというもの、私たちは頻繁に話すようになり、だんだんと彼の素性が分かってきた。
私と同じ高校2年生だということ。
いつもあの時間にいるのは、これから友達と会うから。
甘いものが苦手で、本当は貰ったミルクティーも飲めていなかったこと。
意外にも気さくに話してくれて嬉しかった。
この後この自動販売機前に不良が集まるからと21時半には家へ帰ることを促され、毎回たった20分程だったけれど、とても楽しかった。
貴方は、私の知らないことを沢山知っていたし、私より大人だった。いつもブラックコーヒーを飲んでいて、私の知らない夜の世界のことも詳しいようだった。
今思えば、間違いなく私は彼に恋をしていた。
しばらくして桜が咲くようになった頃、貴方は突然もうここには来ないと言った。理由を聞いてもそれ以上には何も言わなかった。突き放されたと思い、ショックだった。
この日は、それを言いに来ただけだからと私より早く帰っていった。引き止めたかったけど、なにか私には分からないことがあるんだろうと何となく察してしまい、引き止められなかった。
本当に姿を見なくなってから最初こそ辛かったけれど、だんだん時間とともに平気になっていき、受験が終わって塾も辞めたのでその道も通らなくなっていた。
大学生になり、私はバイトを始めた。22時過ぎに、あの自動販売機のある道を通るようになった。
いつものようにその道を歩いていると、突然、大きな声で名前が呼ばれた。驚いて振り向くと、黒髪になった貴方だった。あの頃の不良の面影はなくなっていたが、優しい笑顔は変わっていなかった。
私はこの後、やっと会えたと感激され、連絡先を交換して会わなくなった理由を聞かされるのだが、それはまた少し先のお話。
このまま貴方と会わなければ私は一生理由に気づくことはなかったと悟り、また少し知らなかった優しい世界を知った。
そして、やはり私にはブラックコーヒーは苦かった。
「手放す勇気」
がらがら、と鈍い音を立てながら埃の被った引き出しを開ける。思わず目を細めてしまう。
引き出しの中には、あの頃の淡くて、苦い思い出が詰まっていた。
プレゼントのマグカップ、一緒に見た映画のチケット、水族館で買ったお揃いのキーホルダー。
大切に仕舞われたひとつひとつ全てを懐かしみながら、少し躊躇しながら、ゴミ袋へ入れていく。
指定の黄色のゴミ袋に詰め込まれ、物だけでなく思い出までも黄ばんでしまったようだった。
もうこれから二度と溢れ出ることのないよう袋を強く縛り、外に置く。
あれ、手放す勇気を手に入れたからって無条件に気持ちが明るくなる訳ではないんだな。
晴れ晴れとした空とは反対に、心は沈んでいた。
「酸素」
酸素、それは
人間にとって必要不可欠なもの。
それでいて、みんなが存在を当たり前だと思うもの。
大切さや感謝を忘れられがちなもの。
なくなったら一大事で、皆が欲するもの。
私がいなくなったら惜しんでくれる人はいるのだろうか。ゆっくり透明になって消えてしまっても誰にも気づかれなさそうだ、と私に背を向けて話す友達たちを眺めながらぼんやり感じるのだった。
「記憶の海」
深夜1時。
ベッドの上で寝返りを打つ。
天井を見つめて、今日も頭の中に眠る記憶と戦う。
あのとき、話の内容に対する反応を間違えた後悔
あのとき、調子に乗って喋りすぎた反省
あのとき、会話のテンポを止めてしまった後悔
一度底に沈めたはずの記憶までも蘇ってくる。
今日も記憶の海に潜る。自傷行為だよなあとは思う。
けど不安になることをやめられない。
どんどん深く溺れていく。
いつか浮上してこれなくなりそうな恐怖と、もう記憶と一緒に沈んでしまった方がラクかもしれないという思いが共存する。
今日も、朝が来ることを願って。
「ただ君だけ」
授業の5分前に教室に入る。おはよーと声をかけると
「おはよー、えなんか今日盛れてんじゃん可愛い!」と友達に褒められる。
そりゃそうだ、いつもの2倍時間かけてんだからという
本音は仕舞って「嬉しい〜ありがとう!」と伝える。
今日は週に1回だけの貴方と授業が被る日。
いつものジャージやスウェットは家で待機させ、着飾ったわたしで貴方に会いにいく。
いつもより早起きしたのも、
昨日パックをしたのも、
髪を巻いているのも、全部全部ただ君だけのため。
ちらりと貴方の視線を感じた、気がした。