君の声がすると思って目を開いた。久しぶりに聞いた声で、優しく頬をすかすような。春の暖かい風に桜の香りが乗るような感覚が耳を掠めた。1人の部屋、1人の靴、1人の箸。朝に声を聞いただけなのにも関わらず、どうということのない景色の一つ一つが色付いて見えた。
もし今朝の声が君でないとしても、君が私に声をかけることがなかったとしても、今だけは君がそばにいると信じたい。
記憶は欠片であることを知った。記憶は硬い岩であることを知った。記憶が確固たるものになる訳では無いことを知った。記憶はいとも容易く隠せてしまうことを知った。
辛い記憶は自ら隠れないことを知った。幸せな記憶が溶けて苔むすことを知った。優しくされると記憶が緩くほどかれることを知った。解ける感覚が怖かった。心配されたいのと裏腹に、やさしくしないで欲しいと願う自分がいることを知った。
愛されたことの無い人は愛することが出来ないことを知った。暴力で愛を語られてきた人は、暴力でしか愛を語れないことを知った。ただしく愛を受け取る努力をしなかった人は歪んだ愛を押し付けてしまうことを知った。それに気がついた時、私はもう手遅れなことを知った。今まで追いかけてきたものがゴミになった一瞬だった。
手放した愛は私に手を振ることがなかった、だから代わりに私はそいつを踏むことで私を愛する気になることにした。
手のひらの宇宙はいつしか消えていた。
私が幼い頃は空を飛ぶことが出来て、魔法使いになれて、空を流れる雲は物語を作り、シーツはマントになった。手をかざせばそこには宇宙が広がり、月にまで飛んでいけた。
いつしか勉強が大切で忘れていたけれど、今だって昔と同じように手をかざせば宇宙は広がるはずだった。
けれど、私の期待は淡く脆く何よりも私の信仰心のなさによって崩された。私がもっと、私を信じれば、私がもっと私を愛していれば今も宇宙は簡単に広がるはずだった。
だが、何度目をつぶって空を仰いでも、私の目に移るのは恐ろしいくらい青い空と、ただの手のひらだった。
貴方の元へ消えて飛んでいきたいけれど、お金が足りないわ。死んで残るものなんて灰とお金くらいだもの。今のうちにお金を貯めて、全て可哀想な子供たちにあげるのよ。そうしないと天国に行けないもの。お金があれば幸せになれるから。もう少しだけ待ってて。