なんのために生きているのだろう、と思う。
1日仕事をして疲れているはずなのに何故か布団に入っても眠れない。
こういう時は気持ちがナーバスになりがちだ。
何か楽しいことを考えよう。
私が好きなのはコンビニで新商品のジュースを買って飲むこと、読んだことのない作家の本を読むこと、入ったことのない喫茶店へ入ってみること。
私は初めてが好きなんだ、とふと思った。
同じような日々が続いていることが私を苦しめているのかもしれない。
とりあえず明日は新しい企画を上司に提案してみよう、それで帰りにはずっと気になっていた銭湯にでも浸かって帰ろう。
既読をつけようか、つけまいか、つけたら返信しようか、それともスルーしてしまおうか。
こんな小さなことで悩んでいるなんて、と自分で惨めな気持ちになる。
もうさっさと終わらせて仕舞えば良い。
いずれ向き合わなければならないのだし、遅かれ早かれだ、と思った。
母のドレッサーはいわゆるハイブランドのパウダリーな香水の匂いがした。
しかし私があの匂いにこうした説明をできるようになったのは上京して伊勢丹なんかで同じ匂いを嗅いでからだ。
母は普段化粧をしない人だった。
まして香水をつけているところは一度も見たことがない。
おそらくドレッサーの引き出しに入っていたあの香水も貰い物か何かだったのだろう。
初めその匂いを嗅いだ時は正直臭いと思った。
そのドレッサーも長く使われていないからその香水も古くなってこんな匂いになってしまったのだと思った。
埃やカビの匂いと混ざってしまっているのだ、と。
もしもあの匂いを初めて嗅いだ場所が伊勢丹の煌びやかな化粧品コーナーだったら、
私はあの匂いを良い匂いだと思っただろうか。
それともやはり臭いと思っただろうか。
自動ドアが開くたびに激しい雨音が店内へ侵入してくる。
台風の進路は予報より遅れてマイペースに日本列島を北上しているらしい。
コンビニでのアルバイトは大学入学と同時に始めたのでもう3年目になる。
シフトは夕方の5時から夜の10時。
このあたりは数年前に開発されたエリアらしく、美容室やレストランなどいずれも新しくて垢抜けた店が立ち並んでいる。
そうした場所のせいか暗くなるとお客さんはあまり来ない。
今も店には私1人だけだ。
私は入口の方へ目をやり「床がぬれています。足元注意!」の黄色い立て看板が出ていることを確認する。
店内には「少年時代」のクラシックバージョンが流れている。
そういえば今日はいつも来るお客さんが来なかった。
40代後半から50代前半くらいのサラリーマン風の男性。
背格好がシュッとしていて縁無しの眼鏡をかけている。
そしていつも数百円分のおやつを買っていく。
来るのは大体5時過ぎだ。
買ったら店の外でぱっと食べて、店内のゴミ箱にゴミだけ捨てていく。
最近はもっぱらアイス。
センタンのアイスキャンデーミルク味。
あの日も今日と同じような雨だった。
そのお客さんは一見いつもと変わらないように見えた。
ただ一つだけ、その足元がいつもと違っていた。
靴がいつのも黒い革靴ではなく農作業用の長靴だったのだ。
全体が黒地でつま先や足首のあたりに細く鮮やかな黄色のラインが入っていた。
長さは膝下まであって、靴下が濡れる心配はほぼなさそうだった。
おまけに長靴の履き口の部分は紐で足に合わせて細く絞れるようになっていて、それもしっかりとスラックスの上から絞ってあった。
一度気がつくとその長靴から目が離せなかった。
黒と黄色のコントラストがよく効いていた。
そして異様なはずなのに完璧に履きこなしていた。
これが正解なのだ、と思った。
思わされた。
不思議な光景だった。
一種の感動を覚えた。
そしてなぜか 彼は良い人に違いない、と思った。
店内には「君は天然色」が流れている。
外は相変わらず雨が降り続いている。
バイトが終わるまであと1時間と少し。
私はもう一度、足元注意!の立て看板を確認する。
バイトが終わったらアイスキャンデーを買って帰ろうと思う。
しばらく会っていない友達がいる。
初めて会ったのは保育園の頃だった。
活発で話が面白くて、人気者だったと思う。
小学生や中学生の頃は家の方向が同じで途中まで一緒に帰ることも多かった。4時間以上立ち話をしていたこともあった。
高校から別々になって疎遠になっていった。
今はお互い大学生で、住む場所も遠く離れている。今どれくらいの髪の長さなのかも何に熱中しているのかも知らない。
少しだけ距離を空けるきっかけがあったとすれば、彼女が現役で大学へ進学して入学間もない頃に飲酒したことを知ったときだった。周りもみんな飲んでいたのだろうと思う。
しかし失望したのは確かだった。
彼女は私の知らない場所で知らない人になっていくのだと思った。
さよならを言わない別れの方がきっと多いのだと思った。