"ゆずの香り"
シャーペンの芯が少なくなってきたので、予定がない午前、いつも使っているシャーペンの芯を買いに雑貨屋に来ていた。
──シャー芯買いに来ただけなのに……。
お目当ての、替えのシャーペンの芯が入ったケース(三つセット)を片手に、アロマスティックが置いてある棚の前の前に来た。
──けどあの香水、使う頻度少なすぎてまだ沢山あるし。……けど、たまには違う香りでリラックスすんのもいいか。
時間にはまだ余裕があるからと、とりあえず沢山ある香りのアロマスティックを見ていく事にした。
──思ったより沢山あるな……。買うとするなら、柑橘系のがいいな。冬だし。
滑るようにアロマスティックを見ていると、一つの箱に目がいった。
黄色ベースの、明らかに柑橘系の香りの物だと分かるデザインの箱。念の為何の香りか近付いて箱を見る。俺の予想は当たっていて、商品名の下に〖Yuzu〗とお洒落なフォントで書かれていた。
──柚子か。
柚子の香りは何気に初めてで、どんな香りかサンプルに鼻を近付けて、大きく香りを吸い込む。
──……、いいかも。
爽やかで、それでいて優しげな香り。すぐに箱を手に取って、シャーペンの芯が入ったケースと共にレジに持っていって、会計を済ませる。
──早く使いたいなぁ。
玩具店で新しい玩具を買い与えられた子どものように、逸る思いで帰路に着いた。
"大空"
今日の昼時はとても綺麗な青空で、そんな空を窓越しに見ながら昼食を摂った。
絵の具を溶かしたみたいに綺麗な青色で、雲も極端に少なくて。
外の景色と相まって、まるで絵画のようだった。
ハナは、ご飯を食べた後すぐ窓の近くに行って四肢を大きく広げて、お腹を天井に向けて日向ぼっこしていた。
ご飯を食べた後だから、お腹がぽっこり出ていて可愛かった。
俺が業務に戻るまで、ずっとそんな感じだった。
いや、部屋を出て扉を閉める時もそうだった。
……多分、俺が部屋を出た後もしばらく同じ体制だっただろうな。俺しかいなかったからいいけど、ちょっとは警戒心持て……。
"ベルの音"
──キン、コーン、リン
午後、買い出しを済ませて帰路に着いていると、綺麗な音色が聞こえてきた。
気になって、音が聞こえてきた方に振り向く。
「ハンドベルか」
曲は店を歩いているとよく聞く曲だ。流行りの曲をハンドベルにアレンジしたものだろう。
ステージ横に設置されている立て看板を見る。ハンドベルのチャリティーコンサートらしい。観客は家族連れが多いが、学校帰りらしき学生やスーツ姿の大人もちらほら混じっている。
──やっぱこういう楽器の演奏は人気だな。
ハンドベルは今の季節によく聞く音だ。ハンドベルのように、その季節を思わせる音色の楽器は幾つかある。それらのように季節を感じさせる楽器の音色は、いつになっても人気らしい。
「……」
体の方向を変えて再び帰路に着く。心做しか足取りが軽く、先程よりも足を動きが早かった。
"寂しさ"
俺は騒がしいのは苦手だし大人数でいるのも苦手だから、すぐ離れたくなる。
けど、離れたら離れたで、ちょっと寂しい。
仕事も、引切り無しで忙しなくて『早く終われ』って思うけど、途端に往来が無くなって一人診察室にポツンといると、なんか時間の流れに取り残されたみたいで寂しい。
俺って、寂しがりなとこがあるのか?
「兎年生まれで性格まで兎」とか揶揄われそう……。
"冬は一緒に"
脇の下に挟んでいる体温計から電子音が鳴り響く。
鳴り響いたと同時に手を差し出してきて『渡せ』とでも言いそうな顔を向けてくる。その圧に押され、液晶画面を見る事なくその手の平の上に体温計を置くと、手に取って顔の前に持っていき、液晶画面に表示された数字を見る。
身体の不快感は消え、喉の痛みも熱っぽさも無い。
熱を出した次の日の朝、咳は出なくなったが痛みは少し残っていて、熱もあまり下がらなかった。
いつも通り立って歩いて動けるからいいだろうと思っていたし「もう平気だ」と言ったが、俺の思いなど見透かされていた。凄まれてしまい、結局もう一日休む事になってしまった。
そんな日の、日が地平線に半分くらい吸い込まれた頃。「今日の夕方以降は空いている」と、飛彩が俺の看病に来た。
そして来て早々体温を測るように言われ、今に至る。
「で?どうなんだよ?熱は」
そう聞いて言葉を促す。
これでも内心は結構バクバクなのだ。俺以外の奴らは普通の医師も兼任している。湿度が下がり始めて日も浅い今の季節は医師の業務の方が大変だと言うのに、俺が風邪で倒れたせいで要らない心配をさせて挙句に看病までさせてしまった。
早く復帰して、少しでも借りを返さなければ。
少し身構えていると、飛彩の口がゆっくり開かれる。
「……三六度六分。平熱だ」
「そうか。あぁーっ、やっと動ける」
身体を伸ばしてベッドから立ち上がる。
「だが、病み上がりなのだから明日もう一日休め」
ぴしゃりと言い放たれる。
「……んな事言ってられっかよ。体が鈍る」
「駄目だ。普通の風邪だったとはいえ二日も寝込んでた病人だ。インフルエンザを貰ったら、もっと休む事になるぞ」
「っ……」
何か言い返そうと口を開くが何も出てこず、息を詰まらせて口を噤んで渋々「分かった」と返す。
返事を聞くと「分かればいい」と体温計の電源を切ってサイドテーブルの上に置く。
ふと窓の外に目をやる。
雪がこの前よりも多く降ってきており、風で窓がカタカタと窓が揺れていた。
「このまま泊まってけ」
飛彩に目を向けて言い放つ。
「しかし……」
断ろうとする飛彩に「ん」と親指で窓の外を差して、外を見るようジェスチャーをする。
「あ……」
「泊まりはしなくても、そろそろ晩飯の時間だからせめて食ってけ」
「……分かった」
「つっても、準備してねぇから簡単なもんしか出せねぇけど」
「手伝おう」
その言葉を聞いて「勝手にしろ」と言って背を向ける。
数歩歩いて、廊下まで一歩手前のところで足を止める。
「どうした?」
「……あ、のよ」
ふと今思った事を言おうと立ち止まって切り出そうと口を開いて切り出すが、途端に恥ずかしくなって言おうか言うまいか迷い口篭ってしまう。
「何だ?」
誤魔化そうと『何でもねぇ』と口に出す前に一言で遮られ、その上続きの言葉を促された。
言うしかないのか。
自分を鼓舞するように胸元のシャツを掴む。
振り絞って、胸中の言葉を紡ぐ。
「……今まで、一度も泊まる事、なかった、だろ。だからっ……こ、こんな外になる冬ぐらい、は……一緒に過ごしたい、とか……」
たどたどしくも言う事ができた。だがすぐに「お前は帰れなくて大変なのに不謹慎だろ」と、まるでこんな自分を否定してほしいような言葉を付け足す。
「……それならそうと言え。全く、素直じゃない」
飛彩がそう言って、俺の肩を優しく叩く。
「……てめぇも人の事言えねぇだろうが。それで何回面倒臭い事になったと思ってる」
「確かに、お前のその性格を偉そうに指摘はできない」
そう言って少し笑ってみせると、「早く作りに行くぞ」と背を押され、退室を促される。
まだ少し不満が残っているが、お腹が空き始めたので仕方なく不満の言葉を飲み込んで、台所に向かった。