「手出して!」
そう言って彼女は自分の持っている香水を私に付けた。
「これ、いつも付けてるのだね笑いい香りだなってずっと思ってたの」
「そうでしょ〜!君好きそうだよね」
「香水苦手だけどこれは好きだよ」
いつも会うと彼女は自分の使っている香水を私の身にも纏わせてくれる。それを期待してしまうから、彼女と会う時の服はなるべく柔軟剤の香りが強くないものを選ぶ。
お日様のように明るくにこにこと笑う彼女からはいつもアールグレイの香りがしていた。
「なんか、これすっごく好きな香りなんだけどね、すぐに香り消えちゃうの、君のも消えちゃったね」
「消えてないよ、まだ十分香ってる。慣れちゃったんだと思うよ笑嗅覚は順応しやすいからね。」
「そうかな〜でも君が言うならそうだよね、いっか!」
そう、この香水は結構香りが残る。
本当に残る、一日中、家に帰ってからもまだ自分からアールグレイの匂いがするくらいに。
ご飯を食べて解散して、彼女と別れて1人になってからアールグレイの香りがしなくてもうそろそろ落ちたかなと思っていた。
けれど不意に自分から香水の香りがして、まだ落ちていないことを知った。
香りとは厄介なものだ、記憶に定着してしまって思い出も残ってしまう。ふと香った香りに覚えがあったら振り返ってしまう。
ワンプッシュがちょうどいい、それで大丈夫
充分香ってるよ。
同情
「ええ!?そんなことあったの、それはしんどいね」
大体いつも聞き役で相談に乗り役で。
「何か悩み事ないの〜?」と聞かれても「ないよ!楽観的な人間だからな〜、何となくで生きてるからね笑」と答えるようにしている。その方が周りからのウケもいいし気を使わせることもないから。
そうしているうちに中学の時にはもう既にリアルの友達に悩み事とか本心をさらけ出せなくなった。自分のキャラクターを作ることで人の輪は広がって言ったしその分頼りにしてもらえることも増えた。現実はとても息苦しかった。
ネットを知ったのは高校生に入ってから。唯一ネットを通じて本心を見つけて出すことが出来た。現実の自分とは真反対、本当はネガティブで否定的な人間なのだ。
1人だけ、現実の世界で表も裏も知って受け入れてくれる人がいた。中学生でしかも初恋とも言える恋愛、今でこそもう靄がかかって忘れてしまったけれどきっと彼のちゃんと自分を見てくれる所にも惹かれたのだろう。
けれど長続きしなかった。現実は残酷だった。
「現実で、表の君と裏の君をちゃんと見てくれる人と出逢えたらきっとまた幸せになれるよ」
ネットで思い切って相談したらそんなことを言われた。
当時の私は信じてなかった、ネットにしか裏の顔は出せないのにどこでどう出逢うと?時間も何も解決してくれなくてただ表の顔を使い続ける日々に困窮していた。
だが、自分が悩みを打ち明けられなくて苦しい思いをしたからこそ、打ち明けてくれる人の役になれるのなら何でもしたいという自己犠牲の優しさが生まれた。勿論悪用する人もいて沢山傷ついた。人を信じるのが怖くなった高校3年間だった。そんな私を見て同情しながらいいように言ったら素直で優しい所が私の良さなのだとネットの人達は教えてくれた。
自分は人一倍感情移入が出来るし傾聴もできるから人の悩みを聞いてすこしでも楽にしてあげられる職につきたいと思った。だから大学は看護を選んだ。
交友関係は高校の時よりグッと増えた。きっと表と裏の境目が狭くなったからだろう、好きなことを好きと言えるようになったから趣味の合う友達が増えた。
いつしかネットはリア友が混ざった世界に変わっていった。だから本心を見せられなくなって高校生の時はネットですら息苦しかった。唯一リア友が寝る午前3時からが私の時間、楽に息ができる時間。黙々とプラ板を作っていた日々が懐かしい。
大学生に入って、リア友がネットから離脱したことを知ってまた本音が出るようになった。
「君はさ、死にたいってことばかり考えてる、辞めないもうそういうの」
「…そうですね、笑」
「幸せがなにか、どう生きていくのか考えられるようになったらいいね」
そんなこと言われたって死にたい気持ちに埋め尽くされたくて埋め尽くされている訳では無い。
私だって周りのように幸せになりたい、けど、
幸せなんて来るわけが無いんだと思ってたら思いがけず春が来た。
とても暖かい春だった。恋心を自覚したはいいけど100%叶わない恋だと思っていた。毎日連絡取れてるのもたまに会えるのも、一緒の時間を過ごせてるのも嬉しくて、幸せで。ビックリするくらい生きやすくなった。自分がどう生きたいのかも考えられるようになった、1年前まであんなに辛かったのがこうも変わるなんて本当にありえないと思った。
ずっとこのままがいい、もう中学の時の過ちは繰り返さないと誓った。大丈夫同じことは繰り返さない。
でも結局繰り返してしまった。自分が想ってること相手に伝えることが上手にできなかった
遠距離でもいい、辛くてもいい、それ以上に一緒にいることが話してることがどうしようもなく幸せで楽しくて
ずっと一緒にいさせて欲しい、ずっと一緒にいたい
近距離じゃないとっていうなら近距離になる方法だってあるんだよって言えるようになった時にはもう遅かった
鎮めるのが大変だった。一方通行になってしまったのなら、蓋をするしかない。開かないように厳重に鍵をかけた。体力も精神力も持ってかれる。
疲れきった私に対してみんな同情してくれて、初めてそこで自分の状況に気がついた。
人間ってここまで堕ちることあるんだと言うくらい気づいたら堕ちてしまっていた。最底辺の最下層
「人に対して優しくしましょう」「相手のことを考えて行動しましょう」「人を傷つけては行けません」
散々言われて育ってきたはずなのに、自分のせいで周りの人を傷つけてることが本当に申し訳なくて
でも自分ももう傷つきたくなくて、傷つくのが怖い
死にたいと思うのに死ぬ勇気もない
死んだ後ひとりぼっちの無の世界だったらと考えると怖くて死ねない
かといって生きているのも本当に辛い、独りだからね
誰か殺していいよ、臓器が必要ならあげるよ
そしたらきっとみんな幸せになれるのかな
日本には安楽死制度が無い。海外に行かないとダメで、時間もお金も労力も膨大にかかる。
もし「安楽死させてください」といったら彼らはどんな表情で私のことを迎えるのだろうか
同情の眼差しを向けられるのだろうか。
「あーあ、言わんこっちゃない酷い有様だね」
「なんでここにいるの、もう春だよ」
張っっとして顔を上げると秋風がいた。冬の訪れと共に遠くに旅に出て、ここに戻ってくるのは1年後のはずなのにここにいるのは何故なのだろう。
「君ね、自覚ないのかもだけど季節ごっちゃごちゃだよ。ずっと秋と冬を繰り返してどうするの、春はいつ来るの。このままだとずーっと僕と会うことになるんだからね、こんなの初めてだよ」
「今年のチョコなにつくろうかな〜、でも試験前だから作れないんですよね」
中学2年生の生徒の頭は来週の火曜日のことでいっぱいみたいだ。さっきから数学の問題を解く手が止まっている。
「ホワイトデーに渡すのはどうかな?私は友達にホワイトデーに渡してたよ笑」
そう言うとぱっと顔を明るくして、「先生天才!」と褒めてくれた。
いいから数学の問題を解くんだ!と言いたいがまだ彼女の悩みは尽きないらしい。
「でもね好きな人にはチョコあげたいんですよ、どうしよう…」
どうやら恋している子がいるらしい。4月初めて会った時には「恋なんてしませんよ〜!クラスの男子なんて恋愛対象外なんで!」と言っていたのに、大きくなって…とすこし感慨深くなってしまった。
「買ったチョコ渡して、「ごめんテスト前で作る時間なくて、いまはこれしか渡せないけど3月に気持ち受けとって欲しい、予約していい?」とかいうのは?」
「おおお…すごい。先生ってほんといいこと言うよね、心に刺さった」
「ほんと?笑それは嬉しいな笑」
さあ、これで問題を解いてくれるだろうと視線で促すと、解き始めてくれた。
「先生今年好きな人にあげないの?」
「あげないかな」
丸つけをしながら答える。1番聞いて欲しくない質問、
彼女に何ら罪は無い。
「どうして?好きな人居ないの?」
「…秘密、女は秘密が多い方が魅力的らしいからね笑」
いつも好きな人がいても渡すことの出来ないバレンタインを迎えてきた。
20年生きてて本命チョコというのを渡せたのはたったの1回、しかも手渡しではなくリモートだった。
だから手渡しで渡したことがない。
渡したい人が居ないわけではない。
渡すことは許されるだろうか、ということばかり考えていた。けれど許されなかった。
だからどうしても2月14日が来て欲しくなかった。
何も考えたくなかった、残酷な事だ。ぐじゅぐじゅと傷跡が化膿してまた大きくなっていく感覚があった。
一睡も出来ないまま14日の朝を迎えて、何もすることがないからドーナツを作った。できて写真を撮ってから気づいた、お母さんから唯一教えてもらったこのお菓子は何かに似ている。「ドーナツだよ」と幼少期から言われてきたが、レシピを調べて納得した。
牛乳嫌いの私のために牛乳を入れないで作るこれは、
ドーナツではない。海が綺麗で温暖な地域でよく作られるお菓子だ。所謂郷土料理のようなものだろう。
家に帰ってきた母に聞くと、このレシピは昔旅行に行った際、民泊していた家主に教えて貰ったらしい。
渡す人が居ないのに一人で食べるには作りすぎてしまったお菓子を母と二人で食べながら、楽しそうにその時の思い出話を語る母の話を聴いた。
バレンタインなんてもう来ないでいい、けれど
もしなにかの理が捻れて渡せる機会があるとするならば
私はチョコではなくこのお菓子を作って渡したい
そんなことを考えていた。
本当はね、伝えたいこと沢山あるんだ
だけど決して外に出ては行けないことだからね、
ずっと蓋をしてるんだ
13日も14日も来ないで欲しかったな