布団でダラダラとTwitterを眺めては友達からのゲームのお誘いLINEを無視したりして何がしたいかも分からず早く時が過ぎるのを待ってる。そんな時に来るわけもないけど家族で俺しか知らない女性がインターホンを鳴らしてそれを知れば、夢でも家族の嘘でも幻想でも友達のイタズラでも僕は飛び起きて靴も履かずに君に駆けていくよ。そんなことが少しでもできたら僕はもっと悲しくなれたかな。インスタに君の後ろ姿が撮られている写真を見て嫉妬している僕と羨んでいる僕を君が訪れるならそれはきっとボランティアに近いきがする。
突然の君の訪問。
靴下を1つにまとめずそのまま適当にしまったとして、靴下を履こうと取り出した時、二足をひとつにくるっとしてまとめていないから裏表を確認する作業が入って両方とも表だったとしても裏返しになっていないかどうかを確認せざるを得ない。先に全部やるか、毎回やるか。どっちがいいんでしょうかね。
裏返し
僕がまたねと言い続ければ僕は傷つかなくて済むよね。
さよならを言う前に
見慣れた顔を見慣れた時間に見る。鏡が無ければ自分を見る度に驚いたのだろうか。絶望したのか、感動で涙がこぼれ落ちるか、不変なのか、新しい欲が生まれるのか、嫌うのか。自分を毎日見ることによって自分は当たり前になっていき変化がなければ見ていないと同意義の速度でそこを通過する。でもそれは自分を気にするほどの悩みやコンプレックスが無いからとも捉えられてある意味幸せなことであるのかもしれない。ならば、見つめすぎてもいけないのか。でも自宅の鏡では自分が綺麗に見える現象はなんなのだろうか。家という安心できるなれた場所で何気なく素で自分を写しているからだろうか。人からの評価でしか結局分からない。自分では見慣れすぎて客観的に見るのが難しい。でも地下鉄のエレベーターにある鏡を見て僕は、異性に声を掛けられてもおかしくないと思うんだけどなと思い、改札をピッ!と言わせ6両が来るのを待つ。
鏡
結構みんな自分の都道府県とかに誇りを持ってたりして自分は自分が住んでる場所の有名なところや名前すらも知らなかったりしてほんとにただたまたまそこに生まれただけだしそこまで観光地とかに興味がある訳でもないからほとんど知らなくて、でもみんな有名な場所とか食べ物とか絶景スポットとか知ってたりすごいよって語ってくれるから僕には無い着眼点みたいなのを持ってていいなって最近思う。この「ないものねだり」は都道府県の話に限らず、学歴であったり性格であったり特技であったり考え方であったりでこの80年程度の人生で考えたらどう考えても持ってないものの方が多いから羨ましくなってしまうのも仕方ないのだけど、やっぱり自分が悲しいことや悔しいこと、他者と比べた時にどうしても劣ってしまうから欲しがらずにはいられない。そんな強欲さが自分には無いと思ってたけどいざ直面するといっぱい悩んで欲しがってしまって、ただ自分の気持ちや感情に嘘ついて強欲過ぎる自分を嫌わないように蓋をしてカメレオンのように擬態していた。感情がある限り強欲なはずなのに
誇らしさ