何やってんだろな。
何事もなく、日々穏やかに過ごせています、という顔をしているのが辛い。
でも、大した事なく、人に話せばきっとたわいもない事だと笑われるだけの些細な出来事だけど。
自分の不甲斐なさに落ち込む。
どうしてこうなるんだろ?
あの頃と同じような気持ちになる。
伝わらない人には伝わらない。
そんな届かぬところへ、届かぬ思いを届けようとする、自分の馬鹿さ加減に腹が立つ。
出会いには、理由がある。
まったく接点がないはずの人と偶然出会ったのも、神様の必然だと気づく。
なにを使命として、出会わされたのか、その意味を知ろうとしていた。
けれど、与えられた任務を果たせずにここまで来てしまった事を、申し訳なく情けなく思う。
あの一場面。
全てが崩壊した瞬間の出来事。
ゲームオーバーのように、画面は消えた。
けれど、これはゲームではない。再起動は不可能だった。
これ以上は任せられない。終わりだ。とお告げが聞こえた気がした。
関係が終わる時は、成長の過程で積み上げた波動が合わなくなった時。
なんだかおかしい。何かわからないけど、何かが違う。そう感じたのは3年前。
私はたぶん、そのズレに居心地の悪さを感じていた。修復出来ない予感も抱えていた。あの人と会うたびに真っ直ぐ立っていないような感触があった。
変なものに引きずられているものを、負けじと強引に自分の立ち位置へ戻したいような感覚。つまらなくなっていった。
あの場面は、雷が急に鳴ったような、爆弾が投下されたような、いや、もっととてつもない何かが起きたような一瞬だった。
私は1年ほど前からずっと、もう辞めたいと感じていた。神様に通じたのだなと後でわかった。
神様へ失敗の報告をする。
課題は昇華出来なければ、形を変え、姿を変えて、何度も繰り返し与えられると言う。この先もまた、似たような人と似たような形で、同じ任務を課せられ出会いがあるのだろう。
寄り添って考えられていない手紙が届いた。
期待もしてなかったが、更に気持ちが離れた。
わかって欲しいなんて思えない。
きっと10年後も理解などしていない人。
長く一緒にいたけど、崩壊するのは一瞬だね。
もう二度と交わる事のない道を、別々の方向に歩き出した。
それでいい。
同じ景色なんて、最初から見えてなかった。
大切なものというのは、物なのか、モノなのか。者なのか。
物なら無くなったのなら、きっとそれは縁がなくなったから。たぶんもう必要なくなったのだろうと思える。
モノは、時間とか環境とか。
努力次第で作る事も出来るかな。
者は、自分だけがもがきあがいても、相手の思う気持ちも入ってくるから、相手が自分を必要としてくれなければ一緒にはいられない。
1番難しいが、1番大切なのは者だね。
言葉1つで失うことがある。
感謝の思いは、いつも声にしたり形にしたり表現していかなくては関係は壊れる。
ほんとに大切な者は、ホントに大切にしないと、あとで困るのは自分。
それは腫れ物に触るように接するってことではなく、相手の立場に立って物事を考え、相手のために必要な時、必要な距離感で何が出来るかな?と考えてあげられる事。
人間関係が下手な人は、相手の立場に立って物事を考える事が苦手。
常に主語は「私」だからだよ。
でも、人は自分とは違うヒトだから、自分がこうして欲しいと思っても、相手は必ずしも、同じとは限らない場合があるのだから、そこが価値観の交流になり、擦り合わせる事で似てるようで微妙に違う部分も見えてくるはず。
大人になるって、こんな事。
大切な人を、どうやって大切に出来るかな?
人のために差し伸べる手を持っている自分でありたいね。
あれからちょうど20日。
顔を見てない。
追いかけて来たけれど、振り払った。
世の中には、絶対にうまくいかない相手はいる。
けれど、うまくいかない相手ばかりではなく、どこかにどんな人にも、受け入れ認めてくれる人はいる。
長い事一緒に過ごしてきたけれど、今振り返れば何にも為になる事がなかった気がする。大切な、人としての価値観や考え方の話もしたけど、馬耳東風。
お互いに違う部分を擦り合わせる事など考えてこなかったと思う。
合わない人。
どうか、別の場所で。
幸せになって下さい。