水緒きざり

Open App
7/17/2024, 5:26:36 PM

「遠い日の記憶」は、決して良いものだけではない。

人間ってうまくできていて、
忘れたい過去は全然思い出せない。

でも、ちょっとした、本当にちょっとした
ことがきっかけで、重たい記憶の蓋は簡単に外れて
もう思い出したくなかったことが
スルスルと頭の中を駆ける。

遠くに放り投げたとて、
ちょっとしたことで帰ってくるのだ。

7/16/2024, 12:21:41 PM

空を独り占めできるから、平日昼間のサウナが好きだ。

大浴場に入ったらまずは全身を綺麗に洗う。
公共の場での衛生的な理由が大部分だろうけど、
私はこの「身を清めるような感覚」が好きだ。
それに体がまっさらな方が、
サウナで汗をかいている実感もひとしおな気がする。

メインイベントのサウナに入る前に、
水風呂の水を手桶で掬って全身にかける。
シャワーで温まった身体を冷たい水でしめてから、
サウナの重い扉を開ける。

サウナに入ること自体は正直気持ち良くはない。
蒸し暑い空間にずっと居られるほど鈍感でもない。
室内テレビで流れている、さして興味もない
お昼のワイドショーを見ながら一人じっと座る。

5分もすれば、「もうそろそろ」と「あと少し」が
頭の中で戦いだす。
サウナから出れば水風呂・スポーツドリンク・外気浴
の天国が待っている。
もちろん汗をかけばかくほど気持ちが良くなる。
「もうそろそろ、いや、あと少し…………
CMになったら外に出よう」なんて。

外に出たらまずはスポーツドリンクを飲む。
サウナで乾いた身体に染み込んでいく。
指の先までドリンクが染み渡るような
不思議な感覚になる。

次は水風呂。
恐る恐る身体に水をかけて、
少しずつ冷水に慣らしていく。
いつもより全身が敏感になっているような気がする。
全身を水風呂につけた頃には、なぜか身体の内側が
じんわりと、温かいともなんとも言えないような
感じになる。
あれだけ恐々と水に浸かったのに、
少し慣れれば身体をもぞもぞと動かして
さらなる冷たさを求めている。
とはいえ浸かりすぎも毒な気がするので、
1分半ほどでさっと出る。

最後は外気浴。浴場の外に設置された
「ととのいスペース」へ向かう。
外気浴用のスペースと言っても、露天風呂の横に
背もたれと肘置きがついた椅子が置いてあるだけだ。
それにどかっと座り、もう一度スポーツドリンクを
飲んで、周りに誰もいないのをいいことに
作ったような所作でゆっくり天を仰ぐ。

高い壁に切り取られた空は、私だけのもの。
空までをも独り占めした気分になる。
普段は何とも思わない雲の流れを、ただ眺めるだけ。
あるときはゆっくり、あるときは早く流れるそれを
見て、
「いま、ここに生きていること」
をはっきりと自覚させているのだ。

7/15/2024, 10:49:02 AM

終わりが来ることに極端な恐怖を感じる。
次がもう無いことがひどく怖いのだ。

突き詰めると、死ぬことが怖い。
終わりが来るということは、死んでも次が来ないのだ。

だから、自分から終わらせに行こうとは思わない。
終わらせたくないものやこと、人たちに囲まれている
ことに感謝しようと思う。

繰り返すダイエットは今すぐにでも終わりたいけども。

7/14/2024, 12:21:46 PM

「Teo Torriatte」という曲をご存知だろうか。
「Tewo Toriatte」ではない。

この曲は、イギリスのロックバンドQueenが
1976年にリリースしたアルバムに収録されている。

少し物悲しさを感じる日本的なメロディラインから、
讃美歌のような壮大なサビが外へ大きく広がっていく。
聴いているだけで心が洗われるような曲だ。

曲名でも日本語が使われているが、
サビも日本語で歌われている。
厳密にいうと英語のサビを日本語でリピートする
形なのだが、数ある言語の中で日本語が曲名だけでなく
歌詞としてQueenの作品の中に残っていることが日本人
ながら嬉しく、少し誇らしい気分にもなる。

Queenはボーカルのフレディ・マーキュリーを筆頭に
親日家のバンドで知られているが、
なぜこんなにも日本を好きでいてくれているのか。
気になって調べてみたところ、
<1975年の初来日のときに、他の国ではなかった
熱狂的な歓迎を受けたために日本を大好きになった>
といったエピソードが出てきた。

大きな愛とリスペクトに、
それ以上に大きな愛とリスペクトを
返してくれたQueen。
「手を取り合って」とは
まさにこのことではないだろうか。

"手を取り合って このまま行こう 愛する人よ 
静かな宵に 光を灯し 愛しき 教えを抱き"

7/14/2024, 8:14:24 AM

「戦わない方法」が分からない。

私はこれまで、ずっと勝負の世界で生きてきた。
コンクール、大会、模試、受験、営業成績……
幼い頃からずっと、「結果」を他と比べられる環境に
身を置いてきた。

そして私は社会人になるまで「大敗」を知らなかった。
何をやってもある程度の結果を残していた。
正直に言えば、いわゆる「一等賞」を何度も経験した。

私は負けず嫌いだ。でも、負けず嫌いになったのは
心のどこかで勝利への自信と自覚のない優越感が
あったからだと思う。
そんな私が「誰がどう見ても負け」を初めて経験
したのが社会人1年目のときだった。

営業成績がてんでダメだったのだ。
ひとつも契約が取れないまま1年目を終えた私に押された
「0件」と「最下位」の烙印。
これまでに経験したことのない劣等感に苛まれた。

初めての大敗と、結果を出せなかったことによる
周りからの叱責、そして大きな劣等感に
心を折って会社を退職し、次の会社に転職した。
いわゆる営業もなければノルマも無い、
チームワークを重視する会社だった。

これまで戦いながら生きてきた人間が急に、
「戦わない働き方」を求められた。
正直困惑している。

「戦わない方法」が分からないのだ。

これまで、無意識の優越感で気持ちよくなりたくて
負けず嫌いだったのかもしれないと、
そのとき初めて気づいた。

「戦わない方法」が分からないのだ。

Next