信長の休日ってだいたいそんな感じでしょ
「尾張に私用」
手を取り合って花いちもんめ
世界一平和な、人身をかけた賭博
優越と劣等を感じることに忙しい人たちを軽蔑してきた
その軽蔑も優越感の一種と感じてからは黙ることにした
アラビア語でフラレたことが君にはあるだろうか?
「إِنْ شَاءَ ٱللَّٰهُ」
僕にはある。マッチングアプリで知り合った子から送られていた1件のLINE。それを最後に彼女と音信不通になった。
会う予定の日時以外は決まっておらず、なかなか話が進まなかったので店を提案した後に送られた返信だった。
なぜアラビア語だったのかはわからない。とりあえず調べてみると直訳で「もし神が望んだならば」の意味らしい。
いまいち理解できなかったのでもっと詳しく調べてみるととある日本語とニュアンスが近いことがわかり、ああ二度と会うことはないんだと悟った。
「行けたら行く」
※実話
常識、普通、当たり前。
これらの前に「私の」と添えることがそれこそ常識的であるとされる世の中の動きが強くなっている。
「私に限らずそれはそういうもの」という簡潔さがそれらの言葉の利便性であったが、それも失われつつある。
言葉の利便性と安全性はトレードオフの関係でどちらかに振ればどちらかは失われる。
今は安全性、つまり加害性の排除が重要視されており配慮のために利便性を犠牲にした言葉遣いが求められている。
しかしそういった流れに対して反動的に思うことがある。
そもそも物事を語るうえで多くは個人の主観でしかないのだから「私の」と付ける必要はないのではないか。そもそも受け手側もこれはあくまで個人の意見に過ぎないという大前提を踏まえて聞いているものではないのか。
そこまで考えても結局、他人の認識はわからない。結局どの認識の人にも対応できるよう「私の場合は」と添える。
見えない神の祟りにあわぬよう、祈りを込めるように。
私の場合は。