それは幻の夜
燈る提灯と宵っ張りの蝶
石畳が奏でる酩酊の調べ
影になった者共が行き交う、この世ならざる花の宴
仮面を付けて、香を纏って、あなたは立派な紛い物
眠らぬ魚、木の葉の梟
あるいは、そう、虚妄の象徴、絢爛たる偽の皮
何でも良いさ、口を噤んで胸にお刻み
虚飾だけが繋ぐ命もあるということ
鏡の向こう、水溜りの裏、不帰の森
積み上げられた悪夢は形を成して
底無し沼に溢るる狂乱は、戯れにあなたを連れ去った
空いた胸が弾けるような
爛れた中心が痛むような
無垢な背に惑い、弄ばれて、気付けばつい掌など
柔い灯火に差し出してみたり
愚か者、頭まで溶かしたつもりは無かったのに
輪郭を辿る深い夜
軋む鍵盤を踏み付けて、奥へ誘う酣に
千鳥足のあなたは笑う
噂話でもするように、声を潜めて駒鳥は鳴く
浸る暗闇に気付かないで
信ずる心を飴玉に、舌で転がす獣には
目隠しの遊戯で奥へお進み
さあさあ、雷も雨も恐れずに
一興
なれど扉は閉じられた
気息奄奄の火を貪れば、あなたはもう狂い咲きの鳳蝶
(春爛漫)
星を満たす透明、底知れぬ神秘
あるいは、魂を陥れる腐敗の鎖
いずれも人々を導き、やがて還すもの
蟻が摩天楼を知り得ぬように
我等は星の航路と最果てを見通す眼など持たない
持たざる者は挙って空を見上げた
名も無き星々に標を求めた
天の縮図は人造の奇跡
罪であり、救いなのだろう
宙の旅を終えるまで、我等を定めるものは我等のみ
声無き使者に、姿無き像に、何物も委ねてはならぬ
持たざるが故に、我等には両の腕がある
かつて我等は産声を上げた
例え一人に望まれずとも、千紫万紅の竜となり
死を踏み越えて、いざ空を渡る船となる
いつか枯れた翼を捨てる頃、透明の飛沫に包まれたい
硝煙を飲み込む、大河の源へ
(七色)
虚飾を脱ぎ捨てる
軽くなった肩で、風を切って歩く
恐怖が剥がれ落ちる
憎悪を、憧憬を、力を込めて踏み砕く
血の滴る足を引き摺り進む
光る私は裸になって
讃える声に応えて登る
悲哀は緩やかな弧を描き、狭間に紛れ消えていく
最後に残った愛を捥いでしまえば
円環へ至る無垢の子
願いはとうに失われ、紡ぐ御伽噺は影も無く
夢枕に立つ誰かの涙
どれだけ耳を澄ませても、煙る残響は春荒だけ
腐る花が嘆いている
抗う枝を欠いてもなお、滴る命と同じ色をしている
名も知らぬ英雄に光あれ
夜を越えて、私を忘れて
(記憶)
甘美な毒を撒く悪の花
あれは間違いなく世界の敵なのだろう
鉢に囚われ愛でられることを忌み嫌った花は
けれど誰よりも囚われていた
慈雨を憎み、風に殴り掛かった猛き背は
幾星霜を越えてなおこの瞼に焼き付いて
蕩ける愛に偽りはなく、狂った秤に高笑い
恠恠奇奇をも引き連れた
世界の中の花ではなく、花こそが世界なのだと
砕かれ潰れた残骸へ、せめてお前の望む雨を降らそう
過ぎた炎は我が身をも燃やす
構わないさ
壊れた車輪と剥き出しの白
首が見つからないのだと、太陽が嘆く
吐き出す宝に価値はなく
差し出す愛に報いはない
あんな空虚が終わるなら
誓いも誇りも焼き尽くそう
地獄を呑み、骨になるまで歩いてやろう
閃光、滲む光に虹を見た
幾星霜、聞き手のいない神話を歌いながら
有り得ざる再会、ひとときの夢を
躍動する一矢となれる時を待ち侘びる
焦土の墓から、蕾が一つ
祝福無くともやがて咲く
(もう二度と)
半開きのカーテンから覗き見る鈍色の空
じきに雨が降り出すだろう
君はまだ帰らない
並んだ傘が手持ち無沙汰に佇んでいる
割れたグラスは昨日の名残り
突き刺さった涙が抜けないまま、僕はまた待ちぼうけ
素直な言葉だけが喉に詰まって
余計な言葉は空気より軽い
容易く人を殺せる不可視の刃
傷付けるつもりなんてなかったんだ
薄暗い部屋で呟いても、もう遅くて
淀んだ心が降り止まない
君はまだ帰らない、もう帰らないかもしれない
考え出したら傷口がじくじくと痛んで
結局僕は、いつかの春先、君の笑顔まで帰ってくる
やがて雨は降り出した
窓を打つ音、片足に靴を引っ掛けた僕
勢いのあまり傘は犠牲になったけれど
目を皿にした君
右腕に引っ掛けたストールは水を吸って
四角い箱を健気に守っていた
中身は間違いなく、そう、甘い甘いロールケーキ
今回だけなんて言いながらフォークを差し出す
君の笑顔を迎えに行こう
重なる言葉、ごめんなさいから今日が始まる
(雲り)