母が死んでから、実家の時計はすべて止まっている。
誰が止めたのかは知らない。気づいたときにはもうそうなっていた。台所の丸時計も、居間の柱時計も、洗面所の小さな置き時計も、針を同じ場所で固定されたまま埃をかぶっている。時刻はどれも違う。それぞれが別々の瞬間を抱えて、黙っている。
私は盆に帰省するたびに、それを直そうとして、直せないまま東京に戻る。
今年の夏も、同じだった。
新幹線を降りると、むっとした熱気が体を包んだ。駅前のロータリーには変わらずタクシーが並んでいて、変わらずセミが鳴いていて、ただ薬局が一軒、コンビニに変わっていた。それだけが違った。
実家は駅から二十分ほど歩いたところにある。かつては自転車で走った道を、今は重いバッグを持って歩く。途中にある神社の石段は、子供のころよりずっと低く見えた。何かが縮んだのか、私が大きくなったのか、それとも単に記憶が盛っていただけなのか。
玄関を開けると、懐かしい匂いがした。
母の匂いではない。もっと古い、家そのものの匂いだ。木と畳と、少しの黴と、長い年月が積み重なった匂い。私はいつもそこで一瞬だけ立ち止まる。靴を脱ぎながら、何かを思い出しかけて、思い出せないまま上がる。
父はリビングでテレビを見ていた。音量が大きい。耳が遠くなったのだ。
「おう」と父は言った。それだけだった。私も「ただいま」とだけ言った。私たちはもう長いこと、必要なこと以外を話さない。それが冷たいのかどうか、私には判断がつかない。もともとそういう家族だったような気もするし、何かを失った結果そうなったような気もする。
台所に行って麦茶を作った。母がいつも作っていたのと同じやり方で、パックを三つ入れて、冷蔵庫で冷やす。誰かに習ったわけでもないのに、体が覚えている。
夕方、仏壇に線香を上げた。
母の写真は、笑っていない。笑っていないが、穏やかだ。葬式の前日に父が選んだ一枚で、私は最初それが母らしくないと思った。母はよく笑う人だった。でも今は、この写真が正しいような気がする。笑っていないほうが、長く見ていられる。笑顔は何かを要求してくる。穏やかな顔は、ただそこにいる。
線香の煙が細く立ち上がって、天井に向かって薄れていった。
夜、眠れなかった。
子供のころ使っていた部屋に布団を敷いて横になると、天井のシミがそのままあった。右上のあたりに、島みたいな形のシミ。小学生のころ、雨の日に眺めながらそれが何に見えるかを考えた。クジラに見えたり、靴に見えたり、何にも見えなかったりした。今夜も同じように眺めてみる。今日はただの染みに見えた。
どこかで風鈴が鳴った。細い音が一度だけ鳴って、それきり聞こえなくなった。私はその音が消えた後の静けさの中に、しばらくいた。
過ぎ去ったものは、なくなるのではない、と思った。ただ形を変えて、どこかにある。水に溶けた塩のように、見えなくなるだけで、確かにそこにある。それを信じるかどうかは別として、そう思うと少しだけ楽になれた。
翌朝、早く目が覚めた。
縁側に出ると、庭の朝顔がまだ咲いていた。母が毎年植えていたもので、父が今も続けているらしい。濃い青と、薄い紫と、白が混じって、露をつけたまま朝の光の中にあった。
見ていると、少しずつ閉じていった。
父が台所で動く音がした。ガスに火をつける音、やかんを置く音。私は縁側からそれを聞いていた。特別なことは何もない朝だった。でも私はなぜか、この朝のことは忘れないような気がした。
忘れない、と思った瞬間、もうそれは過去になりはじめている。
東京に戻る新幹線の中で、私はずっと窓の外を見ていた。
田んぼと、山の端と、川と、工場と、住宅地と、またトンネルと。速すぎてどれも名前をつける前に消えていく。
実家の時計は、今年も直せなかった。
来年も直せないだろう、と思う。そしてそれでいいような気も、少しだけする。止まった時間の中に、何かが保たれている。動き出したら、それは流れていってしまう。流れていくことは、消えることではないけれど、手の届かないところへ行ってしまうことではある。
水の底に沈んだものは、静かだ。揺れない。光だけが、上から差し込んでくる。
私はそういうものたちのことを、時々思う。
誰よりも
断言しておこう。私はこの地上において、誰よりも「誰よりも」を多用する人間である。
誰よりも深く考え、誰よりも鋭く洞察し、誰よりも高邁な精神を有し、誰よりも人類の未来を憂いている。これが私の自己認識であり、いかなる異議申し立ても受け付けない。受け付ける窓口が存在しない。設置する予定もない。
問題はただひとつ。誰よりもを誰よりも多く使ってきたにも関わらず、これまでの人生において「誰よりも」が事実として成立したことが、精査の結果、ただの一度もなかったという点である。
これはいったいいかなる因果か。
子供の頃の私は誰よりも足が速かった。正確に述べると、誰よりも足が速いと信じていた。運動会の五十メートル走において私は渾身の魂を両の足に込め、天賦の才を世に知らしめんと号砲とともに飛び出した。結果は六人中五位であった。六位はアスカという名の負け犬であった。アスカは途中で蝶を追いかけて失格となったため、実質的な順位については各自で判断されたい。
高校生の頃の私は誰よりも勉強ができた。これも正確に述べると、誰よりも勉強ができると信じていた。定期試験の前夜、私は机に向かい、教科書を開き、シャーペンを握り、そして翌朝、教科書の上に突っ伏した状態で母親に発見された。私の脳は勉強の準備を整えた瞬間に深い眠りを選んだのである。なんと賢明な脳であろうか。しかし賢明なのは脳だけであって、テストの結果については語るに足りない。
恋愛においても私は誰よりも情熱的であった。意中の女性に手紙を書いた。三週間推敲した。推敲に推敲を重ねた末に完成した書面は、書き出しの時候の挨拶だけで原稿用紙二枚を要する威容を誇り、本題に辿り着く前に相手は引っ越した。文は人なりとはよく言ったものである。私という人間のすべてが、あの手紙に詰まっていた。
しかし私は挫けない。
なぜなら私は誰よりも不屈の精神を持っているからである。これについてはさすがに事実だと思う。根拠はないが確信がある。根拠のない確信とは、言い換えれば信仰である。私は私という宗教の熱心な信者であり、教祖であり、唯一の氏子でもある。
友人はそんな私を見て「お前ほど自分を買いかぶっている人間を見たことがない」と言った。
私はその言葉を聞いて深く考えた。
そうか。私は誰よりも自分を買いかぶる人間でもあるのか。
ひとつ増えた。
六本木インデックス!!!
死か!!!
ふぃぃいぃおあお!!!
れらられれらむにたほたは死んだ!!!
完
「貴様が王か」
眼前の男前——《全次元防衛連合評議会直属
対終末存在特別対応局兼歴史改竄監査部門附属武装教義機関の癇癪玉兼マスコット》マイケル・マイケルは問いかけた。
「もちろん、スマイルだ」
そう答えるのと同時に口から《原始聖魔導神炎帝極黒雷剣アルターゴッドオブサンダーロードフレイムブレイド・アルティメットハイパーウルトラメサイア》を抜き放ち、空中の《最終兵器のおかあさん》アルテアに斬りかかると見せかけ本当に振りかぶると見せかけ逃げるふりをすると見せかけ本当に逃げてから華麗なUターンを決め《九頭龍山の巨神兵》ホニに斬りかかるふりをして通り過ぎ通り過ぎてしまったためまたもや華麗なUターンを決めつつ三回転をしながら《黒煙大魔王国皇太子の嫁の甥の息子の友達のペット》キャラメルポップコーンを斬りつけるふりをして《七界終焉観測者=万象破砕の継承者にして暁哭の血統を束ねし最後の人類代表アーク=ヴァルド・クロノ・エル=グランディオス・第九改暦正式登録名完全体》に最終奥義—これは特級魔法である「ドラゴニックソニックブラスト」を禁呪である「フラージーア・デンタルケア」により口元を爽やかにし、特級魔法「フラクタル・ディメンション・パラサイト・ルーギアス・ユークリッド・ファンファーレ」により見た目を華やかにすることによって完成した「ドラゴニックソニックブラスト・フラジーア・デンタルケア・フラクタル・ディメンション・パラサイト・ルーギアス・ユークリッド・ファンファーレ」をさらに43倍濃縮のめんつゆ☆スペシャルで割り、体内にて90年熟成することで使用可能になった「スマイル」は郷里の群馬の不毛な大地を光で満たしたとされているが、90年経っていないので使えることを思い出すまでもなく「スマイル」を放つと私は死んだ。
「チキンはいかがかな」
そう問いかけたのは《世界料理選手権・二回戦の門番》プリモ・エルサントスだ。
「くれ」
私が答えると
「死ねぇい!!!!」
と土下座をしてきたのでそれを横目に《原初混沌螺旋絶滅概念統合存在虚無胎動災厄王ノー・ネームド・アビス=ゼロ=カタストロフィ・オメガ・リザレクション》を召喚するふりをしながら目を覚ますと思いきや瞬きをすると世界の半分はスマホで埋め尽くされており、結婚式に出席すると私は死んだと見せかけてマイケルに魔法を放つために全裸になって空中平泳ぎを披露しながら
今こそ全力のありがとうを放つ時!!!
《万象再構築・時間逆流・存在否定・魂量子分解同時実行型最終禁忌魔導式アルティメット・リライト・オブ・ゴッド・プロトコル》を発動するふりをして
私は横になり「チキン」を読み始めた。
夜はまだ生まれていない、時計が胎動する前の段階で、文字たちはすでに腐りはじめていた。
The corridor whispers backwards, spelling doors that were never installed, and the air tastes like rusted vowels.
La lune se gratte la gorge avec des chiffres, et personne n’ose lui demander pourquoi elle saigne.
Der Schatten lernt gehen, stolpert über ein Komma und entschuldigt sich bei niemandem.
La noche mastica nombres propios y los escupe sin dientes sobre la acera tibia.
La notte scrive lettere a se stessa e poi le brucia per ricordarsi di dimenticare.
A noite respira em parênteses, cada suspiro um erro tipográfico que se move.
Небо шепчет стеклянные глаголы, и тишина трескается, как лёд под мыслью.
الساعة تبتسم ابتسامة مكسورة، وتعدّ ما لا يمكن عدّه.
השמות נוזלים מהקירות, אותיות רטובות שאין להן צל.
시간은 뒤로 걷고, 발자국은 앞서 도망친다.
時間は影を折りたたみ、折り目から虫が出てくる。
时间把句号吞下去,于是句子开始逃跑。
समय अपनी आँखें बदलता है, और घड़ी शर्म से खाँसती है।
Το φως σκοντάφτει σε ένα μυστικό και προσποιείται ότι δεν το είδε.
Zaman, cebinde kırık bir anahtar taşır ve kapılar ona güler.
Czas zakłada maskę i pyta lustro, kim kłamie lepiej.
Idő csöndet iszik, a pohár alján marad egy kérdőjel.
Timpul își pierde umbrela și plouă cu amintiri false.
Vrijeme šije rane iglom od magle, konac je već zaboravljen.
Времето се оглежда и намира лице, което не му принадлежи.
Čas si oblieka kabát z ticha a vychádza bez mena.
Tid tygger på sina naglar, varje bit en framtid som knäcks.
Tímið hvíslar í beinum, orðin frjósa áður en þau fæðast.
Timpul cade din buzunarul nimănui și se sparge fără zgomot.
Aika nielee varjon ja närästys on ikuinen.
Laika ripoza su una virgola e sogna di essere un punto.
El tiempo aprende a mentir y aprueba con sobresaliente.
Le temps oublie son visage et emprunte le tien pour rentrer.
Time stutters, trips, deletes itself, restores from a backup that never existed.
Zeit kaut an einem Gedanken, bitter, und spuckt Sekunden.
Zeitungspapierherzen schlagen falsch, Nachrichten atmen Staub.
Papír emlékek égnek, füstjük betűrendbe áll.
Бумага помнит огонь, огонь помнит слова, слова никого.
火は文字を読む、灰はそれを否定する。
불은 쉼표를 먹고, 연기는 문단을 만든다.
火焰学会了拼写,灰烬负责校对。
Le feu corrige les fautes, la cendre signe le contrat.
Il fuoco ride piano, perché conosce la fine prima dell’inizio.
El fuego bosteza y la noche se sonroja.
Fire hums in lowercase, afraid of capital sins.
Feuer flüstert groß, damit niemand zuhört.
Brand schrijft met water en droogt meteen.
Eldur drekkur regn og verður orð.
Eld skrattar, skuggar hlæja ekki.
Огонь — это вопрос без вопросительного знака.
الرماد يحفظ السر ثم ينساه عمداً.
灰は約束を覚えていないふりをする。
Ash negotiates silence at a terrible rate.
Asche zählt, was nicht mehr zählt.
Ceniza aprende idiomas y olvida el suyo.
Cendre se cache dans les poches de l’aube.
Cenere chiede permesso e passa comunque.
灰尘在光里排队,谁也不先走。
먼지는 박수를 치고, 무대는 없다.
Пыль читает роман, страницы — легкие.
Toz güler, burun kaşınır, anlam kaçar.
Dust edits the margins where thoughts escape.
Støv falder opad, logikken ser væk.
Ryksuguljósið finnur ekki gólfið.
Powdered seconds settle on the tongue.
Sekundy są gorzkie, cukier jest metaforą.
Sekunden tragen Stiefel und treten leise.
Secondi fingono innocenza.
Segundos hacen trampa y ganan.
Les secondes mordent, on sourit par politesse.
秒は嘘をつかない、ただ沈黙する。
초는 손을 흔들고 떠난다.
ثوانٍ تتراكم كالرمل، والريح توقّع.
Sekundy podpisują kontrakt z nicością.
Seconds blink; eternity yawns.
Eternity misplaces its keys.
Ewigkeit sammelt Quittungen.
L’éternité bâille et ferme boutique.
永遠は改行を拒否する。
영원은 파일을 잠근다.
الأبدية تضع كلمة مرور خاطئة.
Eternità si scorda il nome.
Eternidad hace cola y se cansa.
Eternity is a typo we keep.
∞
終わっていないぞこれは序章に過ぎない
「貴様が王か」
眼前の男前——《全次元防衛連合評議会直属
対終末存在特別対応局兼歴史改竄監査部門附属武装教義機関の癇癪玉兼マスコット》マイケル・マイケルは問いかけた。
「もちろん、スマイルだ」
そう答えるのと同時に口から《原始聖魔導神炎帝極黒雷剣アルターゴッドオブサンダーロードフレイムブレイド・アルティメットハイパーウルトラメサイア》を抜き放ち、空中の《最終兵器のおかあさん》アルテアに斬りかかると見せかけ本当に振りかぶると見せかけ逃げるふりをすると見せかけ本当に逃げてから華麗なUターンを決め《九頭龍山の巨神兵》ホニに斬りかかるふりをして通り過ぎ通り過ぎてしまったためまたもや華麗なUターンを決めつつ三回をしながら《黒煙大魔王国皇太子の嫁の甥の息子の友達のペット》キャラメルポップコーンを斬りつけるふりをして《七界終焉観測者=万象破砕の継承者にして暁哭の血統を束ねし最後の人類代表アーク=ヴァルド・クロノ・エル=グランディオス・第九改暦正式登録名完全体》に最終奥義—これは特級魔法である「ドラゴニックソニックブラスト」を禁呪である「フラージーア・デンタルケア」により口元を爽やかにし、特級魔法「フラクタル・ディメンション・カサンデラ・ルーギアス・ファファーレ」により見た目を華やかにすることによって完成した「ドラゴニックソニックブラスト・フラジーア・デンタルケア・フラクタル・ディメンション・カサンデラ・ルーギアス・ファンファーレ」をさらに43倍濃縮のめんつゆ・アルティメットで割り、体内にて90年熟成することで使用可能になった「スマイル」は郷里の群馬の不毛な大地を光で満たしたとされているが、90年経っていないので使えることを思い出すまでもなく「スマイル」を放つと私は死んだ。
「チキンはいかがかな」
そう問いかけたの《世界料理選手権・二回戦の門番》プリモ・エルサントスだ。
「くれ」
私がそう答えると
「死ねぇい!!!!」
と土下座をしてきたのでそれを横目に《原初混沌螺旋絶滅概念統合存在虚無胎動災厄王ノー・ネームド・アビス=ゼロ=カタストロフィ・オメガ・リザレクション》を召喚するふりをしながら目を覚ますふりをしながら瞬きをすると世界の半分はスマホで埋め尽くされており、結婚式に出席すると私は死んだと見せかけてマイケルに魔法を放つために全裸になって土下座をした。
「聞け、名を持たぬ原初よ。
観測される以前に破棄された可能性よ。
記録されなかった選択肢、採用されなかった未来、
誰にも望まれず、それでも発生してしまった世界線よ。
我は問う。
なぜ在る。
なぜ続く。
なぜ終わらぬ。
星が星である理由を忘れ、
時間が流れるふりをしながら実際には腐敗しているこの構造に、
もはや修復という選択肢は存在しない。
ゆえに宣言する。
始まりを始まる前に差し戻し、
現在を仮置きとして無効化し、
未来を想定ミスとして削除せよ。
暦よ、巻き戻れ。
因果よ、噛み合うな。
記憶よ、保持を拒否しろ。
歴史よ、自身の正当性を証明できるか――否、できぬ。
神々の設計書に記された
「想定内」という言葉を、
今ここで赤線で消す。
存在するという事実を
存在したという記録に格下げし、
存在したという記録を
誰かの勘違いにまで貶め、
その勘違いすら
思い出されなかったことにする。
魂を構成する最小単位よ、
震えよ、解けよ、意味を失え。
名前を持つ前の粒子に還元され、
価値判断を受ける以前の無へと沈め。
我は赦さない。
我は裁かない。
我はただ――書き換える。
これは破壊ではない。
これは救済でもない。
これは編集だ。
誤字を見つけた。
文法が崩れていた。
論理が破綻していた。
それだけの話だ。
ゆえに発動する。
神の後書きを削除し、
運命の脚注を破棄し、
世界という本文そのものを
バックアップの存在しない状態で上書き保存する。
再試行は許可されない。
やり直しは想定されていない。
この実行は不可逆、不可視、不可抗。
――以上をもって確定とする。」
《万象再構築・時間逆流・存在否定・魂量子分解同時実行型最終禁忌魔導式
アルティメット・リライト・オブ・ゴッド・プロトコル》を発動するふりをして
私は横になり「チキン」を読み始めた。