あー!ちょっと、ちょっと!とりあえずストップ、ストップ!
お前は本当にせっかちだね……まぁ、歳を取ってもぐいぐい歩いて行くのは変わらなかったものね。一先ず深呼吸して、一旦そこに寝そべるなりお座りするなりしなさいな。
まだ昨日の今日だ。虹の橋に向かうのは、そんなに焦らなくったって良いだろう。
……良いかい。家を出たのならもう私達が何かを準備してやる事はできないんだから、しっかりと備えていくんだよ。
先ずは沢山食べなさい。食いしん坊のお前が、もうずっと満足に食べられていなかったんだから。好きな物なら食べられるかと思って色々買って来ていたんだ。好きなだけ食べていきなさい。
次に沢山歩きなさい。散歩大好きなお前が、もうずっと満足に歩けていなかったんだから。抱っこで外の空気を吸うだけじゃ物足りなかっただろう。好きなだけ歩いていきなさい。
それから沢山見なさい。臆病なお前が、もうずっと満足に目が見えていなかったんだから。育った家と傍に居る私達を眺めて、少しでも安心してくれたら良い。好きなだけ見ていきなさい。
そうしたら、……嗚呼。そうだね。
……そうしたら。
気を付けて、家から虹の橋に向かいなさい。うんとおじいちゃんなんだから、なるべくゆっくり向かいなさい。もう私達がリードを持っていないからってはしゃぎすぎないように。短い足で草むらに突っ込んだって、もう私達は抱き上げて助けられないんだから。
道は分かるだろう。大丈夫。虹の橋のたもとは、美味しいご飯も水もある暖かな場所だと聞く。家族が来るまで眠らずに頑張ってくれた良い子のお前なら、絶対に迷うことなく辿り着けるだろう。
有難う。あとは幸せに、ゆっくりと過ごすんだよ。
先月うちのわんこが虹の橋へ向かう事になった時、吐き出すように書いた文章です。
自己満足だけど載せられる日が来て良かった。
よく覚えています。あの日、空は花曇りでした。浮かぶ雲は足早に流れて行き、嗚呼今日は風が強いのだなと思っていました。
そんな空を見上げるばかりの私を、君はいつまでも見守っていてくれましたね。「ちゃんと前見て歩きな」と、優しく手を握ってくれていました。でもそのくせ、数歩先を行く足は止めません。手を引いて歩く君と、ついて行く私。私達の距離はずっと縮まらないままでした。
本当はあの時、いつもの様に隣を歩いてほしかったのです。先にいかないでほしかったのです。あの日々の様に、ずっと隣で同じ花を眺めていてほしかったのです。そうだったのなら、私は涙が溢れないように空を見上げ続けなくて良かったのですから。
嗚呼、今だって未練がましく、時折思いを馳せてしまいます。あの日、あの瞬間。私が強く願っていた事を。けれどその願いは叶いません。永遠に、ずっと。
今日も強い風が吹きます。今日も花は散って、何処かへとバラバラに飛ばされて行くのでしょう。
ブランコではしゃぐ幼い君の背中を、僕はいつまで押してあげられるのだろう。
あんなに聴いていた君の話し声を、ある朝目覚めた僕は思い出せなくなってしまっていた。何があった訳ではない。ただ、記憶が劣化したのだろう。君の話し声は、聴けなくなってしまってからもう随分と経っているから。
それでも朝日を含んで揺らめくレースカーテン越し、僕は君の話し声の名残りを探した。
ああ、少し低くて、とびきり優しい声だった。緩やかな語調に、僕は何度癒されただろう。こうして表現する事は今だって難しくない。
けれど結局、頭の中でその声を再現する事は叶わなかった。柔らかい朝日に、君の話し声の記憶は溶けていってしまったのだ。
頬に冷たい涙が伝う。僕は独り、真に君と離別するここまで、随分と遠くまで来てしまった。
この別れは僕にとって苦しく、悲しく、人生をも揺るがすものなのです。貴女の替えなど居ませんし、欲しくもない。ただただ此処に立ち竦む事しかできなくなる。そんな絶望的な別れなのです。
だから今日この日、僕はうんと重い言葉を貴女に贈るつもりでした。
「さようなら。どうかお願いです。幸せになってください。夢を叶えてください。僕が知ることのできない未来で、きっと幸せに美しく生きていってください」
けれど、貴女にとってはそうではない。この別れは貴女にとって楽しく、嬉しく、人生を彩ってくれるものなのです。此処から始まる先の未来で、貴女はきっと輝かしい世界を生きて行く。その為の別れなのです。
だから今日この時、僕はヘラリと軽薄に笑ってみせました。
「バイバイ。元気でね」
きっとこの軽やかさが正解だったのでしょう。手を振り返してくれた貴女は、背を向けて歩き出すその瞬間まで愛らしい笑顔で居てくれたのだから。