《海の底》
時々全てを投げ出して誰も来れないであろう海の底に沈みたくなる時がある。別に何かある訳ではない。仕事だってやりがいがあるかは分からないけれど人の役に立っていると感じるし、友人関係だって良好なはずだ。それなのになぜか全てが嫌になる。深い深い海の底に沈んでしまいたくなる。
ガヤガヤと居酒屋特有の騒がしさが沈んでしまった私の気持ちにはちょうど良いのかもしれない。感傷に浸りすぎず、酒にも飲まれ過ぎず、ただ淡々と時間が過ぎる。
「先輩浮かない顔してますね。大丈夫ですか?」
声をかけてきたのは私の2歳下の出来の良い後輩だった。人懐っこい笑顔と相手がどんな人であろうとすぐに打ち解けてしまう巧みな話術。私とはまるで正反対の性格でその性格が羨ましいと思ってしまう。
「ああ、ごめんね。せっかくの飲み会なのに。ちょっと疲れちゃっただけだから気にしないで。」
「先輩いつも頑張ってますからね。本当に先輩のこと尊敬してますよ。でも、疲れたならちゃんと休まないと。」
「ふふ、ありがとう。多分酔いが少し回っただけだと思うから大丈夫だよ。」
「お水1つ頼みましょうか?あ、それとも外の空気吸いに行きます?」
「んー、ちょっとだけ外に行こっかな。」
「了解です!じゃ、行きましょう。」
「へ?」
「え?」
どうやら私は彼と一緒に外に出るようだ。てっきり1人で出るものだと思っていたから、間抜けな声を出してしまったことが恥ずかしい。
「ふー、外気持ちいい。先輩寒くないですか?」
「大丈夫だよ。外気持ちいいね。」
「ですね。俺もちょっと疲れたんで一回外に出たかったんですよ。」
「君も疲れることあるんだ。」
「流石に人間なんでありますよ。てか、先輩の中で俺のイメージどうなってるんですか。」
「うーん、なんでも出来る後輩?」
「そんなオールマイティーな人間じゃないですよ。先輩こそ何でも出来るイメージですけど。」
「まさか。買い被りすぎだよ。いつも全部投げ出したいって思ってるような人間だよ?」
「そうなんですね。まあ、その気持ち分かりますよ。なんか全部ぐちゃぐちゃにしてどっかに逃げたくなる時俺もあるんで。」
「君も、あるんだ。」
知らなかった後輩の一面。真面目そうな彼からまさかぐちゃぐちゃだなんて言葉が出てくるとは思わなかった。けれど、逃げ出したいと思う気持ちを持っているのは私だけではないのだと思うと少し安心する。
「私ね、たまに全部投げ出して光が届かないくらい深い海に落ちたいって思うの。」
「え、」
「別に今の人生が嫌な訳じゃないよ。そうじゃないんだけど、何て言うかな、上手く言葉にできないけどとにかく誰もいない場所に行きたいなって思う時があるの。」
「先輩も俺と同じですね。」
「ね。でも、私意気地無しだから海の底まで行くことは出来ないんだろうな。私上手く泳げないからきっと沈んじゃう。水面に出られないのも怖いからなあ。」
「なら、」
「ん?」
「その時は、先輩が沈んでしまいそうな時は俺が引き上げます。先輩が沈まないように、絶対に水面まで連れていきますよ。」
あまりにも真剣な彼の顔に言葉が詰まる。別に本当に海底まで沈もうだなんて思ってはいない。けれど彼の真剣なその顔と声に、根拠の無い安心している私がいる。
「ふは、ふふ、何も本当に海底まで行く訳じゃ無いんだから、そんな真剣な顔しなくても、んふふ」
「先輩、笑いすぎですよ!こっちは本気で心配してんのに。」
「ふふ、ごめんね。でもありがとう。君のお陰で元気出たよ。でも、そろそろ中戻ろっか。話してたらお腹空いちゃった。」
「…そうですね。先輩、」
「どうしたの?」
「さっきの言葉嘘じゃないですよ。どうしても辛い時は俺のこと頼ってくださいね。」
「…うん。あ、君もいつでも私のこと頼ってね。どこまで君の力になれるか分からないけど、私に出来ることは全力でやるよ。」
「それは、頼もしいですね。」
「でしょ?」
えへへ、と笑うと彼も釣られて笑っていた。きっと海の底から水面に上がるのは簡単なことではないのだろうけど、不思議と彼となら簡単に上がれてしまいそうだななんて思いながら店の中へと入っていった。
Fin
《君に会いたくて》
遠距離恋愛というものはどうやら私には向いていないようだと、常々思う。例えば仕事で嫌なことがあった日。電話越しに彼と話すだけで彼の温もりに触れたいと、彼に逢いたいと思ってしまう。精神的に参ってる日は彼と電話をしない方が良いのではと最近は考えるようになった。もちろん彼はそんなこと許さなかったけれど。
「愚痴でも良い、どんな話だって聞くから電話しないなんて言わないでくれる?俺だって、お前に会いたいんだよ。」
「うん、ごめんね。もう言わない。」
「そうしてくれ。本当にごめんな。中々会いに行けなくて。今抱えてる案件が終わったら1回そっちに戻るから。」
「待ってるね。無理はしないで。」
そんな話をしたのが2週間前。彼と遠距離恋愛をしてから3ヶ月が経った頃だった。3ヶ月とは短いようで長く、彼と過ごす時間が長かった私には耐えがたいものとなってしまっていた。
今日も仕事で上手くいかなかった。自分の不甲斐なさと同僚へと劣等感に心が沈んでしまっている。こんな日は彼と電話できたら良いのだが、彼は仕事で忙しいのか留守電になることが多かった。きっと今、家に帰れば彼のいない部屋にメンタルがやられるだろうと思い、近くのコンビニでビールを買って近くの公園で過ごすことにした。
ビールをやっと一本空けたところで着信音がなる。この公園には人がいない。必然的に私のスマホがなっていることになる。こんな時間に電話を掛けてくるのは彼しかいない。スマホのディスプレイを見ると彼の名前が表示されていた。私は浮き立つ心を抑え冷静を装い通話ボタンを押した。
「もしもし?今大丈夫か?」
「大丈夫だよ。どうしたの?」
「最近電話出れなくて悪かったな。ちょっと仕事が立て込んでて。」
「そうだったんだ。ごめんね、何回も電話しちゃって。」
「いや、それは全然大丈夫だ。お前、元気にしてるか?ちょっと声が暗い感じがするけど。」
そんなこと無いよ。そう言おうと思ったが彼と久しぶりに話せたことと、彼の声に安心して涙が堰を切ったかのように溢れだし言葉になら無かった。
「大丈夫…では無さそうだな。本当にごめんな。」
「会い…たい…よ」
「うん。俺も早く会いたい。」
「1人…は寂し…い」
「うん。寂しいな。でも、流石にこんな時間に1人で公園にはいてほしくは無いかな。」
「え…」
どうして離れた場所にいる彼が私の居場所を知っているのだろうか。彼は遠距離恋愛の末に私の居場所が分かるような目覚めてしまったのだろうか。
「帰ってくるの遅くなってごめんな。」
電話越しの彼の声と頭上から降ってくる声が重なった。頭を上げると少し困った笑みを浮かべる彼が立っていた。
「ど…して…?」
「驚いたか?」
「幻覚?」
「現実だよ。」
「だって、仕事って…」
「今回の案件が終わったら帰るって、言ってただろ?お前に会いたくてめちゃくちゃ頑張って終わらせてきた。」
「そう…だったんだ。」
彼から会いたいと言われる度に心の奥が暖かくなる。彼は私を抱き寄せてきつく抱き締める。少し苦しいくらいが今の私にはちょうどいい。
「やっとお前を抱き締められた。」
「ずっと待ってた。おかえりなさい。」
「ただいま。って、めちゃくちゃ体冷えてる。家、帰るぞ。風邪引く。」
「え、もっとギューしてたい。」
「帰ってから嫌ってほどギューしてやるから帰るぞ。」
「ほんと?」
「ああ、約束だ。」
「約束だよ。」
繋いだ手から、彼の表情から彼が私に会いたがっていたことが伝わってくる。こういうことがあるなら、遠距離恋愛もちょっとは良いかななんて思う。
Fin