仲間
この言葉が一番嫌い。
すみません。
未熟者でごめんなさい。
いい年してだめだね。
居ないことはなくて、必要不可欠な仲間も有り難い事に近くにいます。
助け合い頼り合い学び合い、何でも話せる信頼できる仲間です。
仲間のいない人間は早死にするそうです。動物の世界でも証明されていますが、その中でも孤高の動物はいるものです。
試されているのでしょうか?
責められているのでしょうか?
人と上手に付き合えない私を…。
何を学び、どう活かしていくのか?
又同じ過ちを繰り返すのかと。
仲間…私の人生の課題でしょうか。
手を繋いで
仕事柄手を繋ぐ事が多かった。最初は抵抗があったが、必要に迫られてどんな手でも繋いでいるうち慣れてきた。人間とは慣れる生き物なのだ。次第にその手があまりにも柔らかく意志がないように感じられ、全てを委ねたその手が、私を優しく包むようで癒されるようになってきたのだった。肌と肌の触れ合いとは言葉などいらないかの様に真っ直ぐに心に届くようだ。
悲しいかな、それでも私は感情がなかった。癒されながらも、氷のような冷たい心には無意味だった。
母親、家族と手を繋ぐ事は殆ど無かった。子供達が小さい頃はあったのだが。嫌悪感が先に出るのだ。自分でも同仕様もなく肌が触れるのを無意識に拒否してしまう。
自然に手を繋ぐ事が出来たなら…、もっと自分を好きになれたなら、違う付き合い方が出来ただろう。
しかし、危険が迫っていたり、生きるか死ぬかの瀬戸際なら自然と手を繋ぐかもしれない。実際、母が亡くなった時何の違和感も感じられなかつたのだから。
生きている時に自然と手を繋いであげられたらよかったのにね。
生まれ変わって又、母娘だったら今度はお互いに普通の母娘として、手を繋ごうね。
簡単だよ、きっとね。
ありがとう、ごめんね
出会った人全てに、言いたい。
私に関わった人、一人一人に。
変かもしれないけど、私の目の前に現れる人、表立って現れなくても陰日向私に関わった人はその人に化けた仏様なんじゃないだろうかと思ったことがある。化けるなんて、バチがあたるかも、ごめんなさい。
優しい人はもちろん、嫌なことを言った人、厳しい人、寄り添ってくれた人。そして家族も…。
どんな人達も私が修行する為の媒体であり、その事でひねくれたり嫌いになったりするのは、自分の修行が足りないせいなのだ。
そんなふうに思う様にしても、難しい。
ありがとうございます、でもやっぱり嫌なものは嫌だし、わざとじゃなくても沢山傷つけてしまったから、
ごめんなさい、未熟者で本当に…
部屋の片隅で
壺中の天という言葉が好きだ。
詳しくはないが、壺の中に閉じ込められても心では天を想像するというような意味であったような。
私はちっぽけな視野の狭い人間だ。
いつも部屋の片隅に1人ちんまりと座って、過ぎてしまったどうでもいいことをいつまでもクヨクヨ悩んでいる。
やがて、どうしょうもなくなった時坐禅をする。
瞑想の中でこの部屋の片隅にいる自分を頑張って俯瞰する。
少しづつ広げこの街この日本この地球この銀河の中で、瞑想する自分を俯瞰するのだ。
壺中の天という言葉を何度も呟く。
この部屋の片隅で。
逆さま
もしこの人生が逆さまだったらどうだろう。
生まれた家は大きく暖かい広いお家。家族は両親共に優しく働き者で兄弟姉妹に毎日美味しいご飯を食べさせてくれる。家族旅行やお祭りは賑やかで沢山の仲間たちが家族の様に付き合うのが常である。兄弟達も仲良くケンカをしても頼り合い、心配し合う。
それが次第に離れ離れになり、それぞれが孤独の中何処でどう生きているのかもわからない。
年老いた親は淋しい老後を、子供達はそれぞれが何らかの苦労をして、お互いどうしているかも分からずに…。
そう思えば、全て逆さまで良かったと思えるのだ。子供の頃、不遇な時代を生きたからこそ、今のこの人並みの生活が夢の様に思えるのだ。人生の終わりに家族がいて、あたたかくて、心から全てに有り難いと思えるのだから。
逆さまで良かった。