「……あれ、これ」
母が生前使っていた机の、下から二番目の引き出しから、一冊の日記帳を見つけた。それは筆まめな母が毎晩のように書き付けていたものだった。
幼い頃から、お喋りなくせに大事なことはあまり言わない母がいったい何を思っているのか気になって、中身を見せて欲しいと何度も強請っていたが、一度たりともその願いが叶ったことはない。ある時期を過ぎた頃から強請らなくなったが、それは単に、母も一人の人間だということを認識するようになったからであって、興味が失せたわけではない。それは今も続いている。
……何が言いたいかと言えば、読みたいのだ。
気を遣るべき母はすでに亡き人となってしまった。父は一定の距離を取ることで他者と信頼関係を築く人で、さらに母の尻に敷かれていたので、彼女のもっともプライベートな部分──ここで言えば日記の中身──には無遠慮に触れようとしない。この日記帳の存在を知らない可能性すらあるような始末なので、きっと目撃されても何も言いはしないだろう。
──例えば、家族の大切なものをひとつ自由に見られるとしたら、君はどれを選ぶ?
▶︎閉ざされた日記 #17
心の片隅でずっと覚えていた違和感の正体に気付かないふりをし始めて、早くも四年が経とうとしている。
▶︎心の片隅で #16
白くぼやける視界のどこかで真白なしっぽが揺れている。
姿はほとんど見えないけれど、あれはおそらく猫だろう。細長くて、柔らかそうで、ゆらゆらと左右に揺れるあれは、きっと猫のしっぼに違いない!
であれば保護しなければ。こんなところに長いこと居続けたら良くないのだから。
……はて。
疑問を孕む声が不意に口をついて飛び出した。
ここはいったい何処だろう。
なぜ僕はこんなところに一人立ち竦んでいたの?
良くないって、なに?
そもそも──僕の、なまえは?
深まりつつある霧の中、しっぽは変わらず揺れている。
▶︎光と霧の狭間で #15
炎に巻かれて去りし葉を今か今かと待ち侘びて
しずく流るるあくる日の霧にそなたを垣間見る
▶︎燃える葉 #14
久しぶりの非番だというのに午前から呼び出されてしまった恋人を待つ間、コーヒーを一杯注ぐことにした。
常温の水をメーカーに入れて少し待つと、コトコトという音とともに湯気が上り、独特の苦味が柔らかく鼻腔を擽る。コーヒーが出来上がるまでのこの瞬間が一番好きなのだと、いつの日か彼が言っていたのを思い出す。
「遅いなあ……」
彼は、ちょっとした変化に気付いては嫌味なくサラリと褒めるようなひとで、たまにこちらを揶揄っては言い返されるたびに面白そうに笑う顔が、なによりも素敵だった。
舌も、上背も、感性も、何においてもうんと大人だから、いつかあたしを置いて遠いどこかへ行ってしまうんじゃないかと怖かった。
……だけどもう、きっと大丈夫。これからはずっと傍にいるって約束したもの。
「はやく帰ってこないかな」
その時、─── ジリリン!!と受話器が揺れる。
天井から吊り下げられた暖色の光が、約束の証にギラリと反射した。
▶︎コーヒーが冷めないうちに #13