京都の坂を修学旅行の一団が下っていた。
中学時代の彼の同級生たちだ。彼はそのなかに混じって青空を背にした古都の街並みを眺めている。いかにも楽しげに。
しかし、———瞬間、叫び声。
「人殺し! 人殺しよお!」
上下に正しく流れていた人の波が途端に混沌を極めた。人々はめいめいに叫んだり泣いたりしながらあちこちへ逃げ惑った。人間の渦ができ、それに巻き込まれた者から例の人殺しに殺された。背の高い彼は人々の頭越しにそいつを見ることができた。それは今の上司だった。
「逃げよう! 逃げよう!」
彼は率先して学生たちを引き連れ、誰かの身体を幾人も押し退けてぐんぐんと坂を下った。そして大きく口を開けていた地下への入り口に飛び込んでしまうと、前後は延々とつづく一直線の道になった。すぐそばを流れる水の音が聞こえる。後ろには生徒が数十人いた。
「進もう!」
彼らは足音をひそめて慎重に進んだ。すると眼前の暗闇からぬらりと人影が浮き出てきた。殺人鬼だ。
「逃げろ! 逃げろ!」
彼はせいいっぱいに叫びながら後ろへ駆けた。辺りの景色はもう闇に溶けて、息せき喘ぐ声すら完璧な陰に飲み込まれた。友達を押し倒して奥へ奥へ進んで、もう誰もいない。
「はやく出勤しろ!」
出勤しろ! オフィスに立ち尽くす彼が気がつくと自身のベッドの上だった。身体がだるい。体温を測ると微熱だった。
へんな夢を見た、と彼は思った。
駅前の広場に子供がいた。
仕事帰りだった。もう時刻は二十二時を回って、くたびれたサラリーマンもそう多くない。
頬の赤いその子供はたった一人で、街灯の下、星一つない曇り夜空を見上げている。カラフルな色合いのニット帽とダウン・ジャケットは少しぶかぶか、たぶん買って間もなくだろうと思ったが、それにしてはやけに古びている。私は、
「こんな遅くになにしてるんだ。両親は?」
と声をかけた。子供は顔を上げたまま、ちらと視線だけをこちらに寄越して、
「雪」
「雪?」
「雪をまってるの」
そしてまた元のように空を見つめる。白いため息をつき、
「今夜は雪は降らないよ。うちに帰りなさい」
「やだ」
子供は口をとんがらせて言った。子供らしい意地っ張りというよりは、むしろ女のつく嘘のような匂いがした。
「どうして? また明日、雪が降るのを待てばいいじゃないか」
と訊ねた。子供は間髪入れず、
「去年ね、雪が降ったでしょ」
「………ああ、そうだね」
思い出すのに手間取った。がきの頃と違って雪はそう印象深いものではない。
「そのときにね、お母さんが「雪を見るのはこれで最後ね」って言ったの。それからすぐにお母さんは死んじゃったんだけど、雪だるまをつくったらよろこんでくれたから、今年もつくろうって思ったの。お母さんね、明日の朝ごろに死んじゃったから」
「………そうか。じゃあもう少しだけ待とう。寒いしおでんでも食うか?」
「うん、食べる」
「そこのコンビニで買ってくるからまってなさい」
私はなんとも言えぬ感慨のまま駅前のセブンに寄って、こんにゃく、大根、それからちくわを二つずつ買った。両手に湯気の出るカップを持って自動ドアを出ると冷たいものが首を撫でた。雪だ。年甲斐もなく心をおどらせながらあの街灯の下にもどった。
子供はもういなかった。
クリスマスに近づくと町中がイルミネーションできらきらする。外は寒いがカイロがあれば暖かい。
けれど昔は、冬といえば寒くて暗かった。そしてそのぶん星がよく見えた。人の温もりが身に沁みた。今は夜空を見上げても真っ暗だ。みんな俯いて画面の夜空を見ている。見えないだけで星はいつもそこにあるのに。