あの日の夢を今も思いだす。
きみと僕のこと。いや、そこに僕はいなかった。
きみはそのころいつもなぐられて、髪をひっぱられて、無視されて、教科書をかくされて、毎日々々、帰り途に一人で泣いていた。
僕はいつもそんなきみを見ていた。
きみは何もわるくなかった。生まれた環境が人とちがっていただけだ。それはどうしようもないことだ。
僕はきみを救いたかった。こんな今から。こんな人たちから。
それでも僕にはなにもできなかった。
誰かがきみを助けた。きみは何もかも壊れたように泣き叫んで、喉を枯らして叫んで、喚いて、そうして最後には笑ってみせた。僕がはじめて見た君の微笑みだった。君の傷が癒えた音がした。
僕はなにもできなかった。
僕はきみを救いたかった。
でももう二度と、僕はそんな夢を抱きたくなかった。
星のかけらってものがあるなら、絶対にけがらわしいものだと思うよ。
だってそれは僕たちのことだもの!
もしも僕たちが本当にあるのなら、けがらわしすぎて、神さまが何故僕たちを消してしまわないのか疑問だよ。かけらってのはすでに欠けてしまったものだろう? 不要物でしかないじゃないか。
不要物がより彼にとって愛おしいのだとすれば、神さまはだいぶ人間味のあふれたやつだね。つまり神さまも何かのかけらというわけだ。
なあんだ、結局みんな不要物ってわけか。
くだらない、くだらない!
幸せとは現状に対する満足である。
満足の程度は人によるが、得てしてみな幸福が長引くにつれそれを不満に思いはじめる。ゆえに生活の向上は彼らに不可欠である。しかしその向上も向上しなければ不満になるので、生活の向上とその向上の向上が、幸せの継続条件だと考える。
二〇二五年になりました。
なんだか今年中になんらかの外的要因で死する運命にある気がします。
大勢の人が死ぬ予感がしています。
それが外れてくれたらうれしいが、ともかく自分はもう少し未来を考えた生き方をせねばなるまいとも思います。
それでもふとしたことで死んでは意味がない。
しかしいつ死ぬかはだれにも分からない。
とりあえずは元旦を生き延びたことを祝うことにします。
あ、あけましておめでとうございます。
良いお年を
そう言って別れたのち、実家に帰省した友人は、その道半ばで事故に遭い死んだ。
祈りは届かない。