時を告げる (9.6)
————って言ったら、あいつ本当に走りに行ってさ」
くっくっと震える喉が見えるような笑い声。ぴったりとスマホを耳にくっつけて楽しそうな君の声を聞く。まるで君が隣にいるように耳が真っ赤になってしまうのだから困る。ニヤニヤしすぎて奥歯のあたりが引き攣ってきた。
「で、戻ってきたら案の定顔真っ赤でゼェゼェ息して…って聞いてるか?寝てねぇよな?」
「大丈夫。この状況が幸せすぎて録音しようか考えてた。」
ふにゃっとした顔を自分でつまんで真面目に答える。
「黒歴史確定じゃん絶対やめろよ。」
今度は思わずケラケラと笑ってしまった。あーあ。かわいい笑い声とかしーらない。
ふっと向こう側が静かになる。急にひんやりとした風が吹いた気がした。
「時間だな。」
「…うん。」
決めているわけでもなく、ただ寂しい風が時を告げる。甘くてくすぐったくてあったかい、柔らかな時間はひんやりする夜には耐えられないみたいだ。
私たちはもったいつけてゆっくり息を吸う。
「「おやすみ。」」
貝殻 (9.5)
運命の糸なんてか細くて頼りないもの、私にはいらないんだから。
唇を噛んで教室の前の方に座る男子の背中を睨みつける。その男子は何かあれば———風がちょっと吹いたとか、先生が教科書をめくるわずかな間だとか———うざったいほど斜め後ろの少女を視界に入れようとしていた。
私たち付き合ってるんでしょ?
悲痛な叫びは届かない。見ていられなくなって資料集に視線を落とす。平安時代の貴族の生活がまとめられたページ。ぐるりと床に並べられた貝殻を渦を描くようになぞる。
貝合わせ。この世で一つしかないつがいを見つける遊び。
彼は私のつがいなのだ。息を吸って、顔を合わせた瞬間私たちはカチリとはまったのだ。それをどうして離れようとするのか。
絵の中できゃらきゃらと笑う女房達は合わなかったらしい貝から手を離そうとしている。
ああ、あの子が彼の視線に気づいて微笑んでいる。
つがいの消えた片貝は、どこに行くというの?
きらめき(9.4)
夜のような人。悪く言えば暗闇のような。いつもひっそりと過ごしていて地味で孤独な少女だった。うちの時代遅れな暗い紺のセーラーがよく似合う、黒髪を伸ばしっぱなしにした典型的な陰キャ。
そんな少女のことを思い出したのは高三も冬、ピリピリとした冷たい夕焼けの下でのことだ。
いまいち勉強に身が入らず手ぶらで黒い海に向かうと、重い髪を結い上げ野暮ったいスカートを何折もした女子高生が叫んでいた。アンバランスな音程で。リズムをとっているらしい右足は地団駄を踏んでいるようで。
それでも、異国のロックをシャウトする姿はどうしようもないほど魅力的だった。
ふと彼女はこちらを振り返って、瞳を大きく見開いた。その顔はやけに清々しくて明るく輝いていて。それは汗か、飛沫か、はたまた涙だったのか。身体全体で生き生きと煌めいた彼女ははにかんで笑った。
彼女が夜のような少女と同じ人物だったのかは今でも確信が持てない。だけどあれから、少女の瞳に星が瞬くようなきらめきを見る気がしている。
些細なことでも(9.3)
「奥さん、些細なことでもいいので思い出したらご連絡ください。」
同情しているとでも言うような優しげな声を出した女刑事は、私に名刺を渡すと鋭い目でひと睨みし颯爽と帰っていった。
些細なこと。片付け忘れた洗濯カゴが定位置に戻っていた。いってきます、という前にほんの少し目を細めていた。今日の弁当はふりかけと迷って梅干しを置いたような跡があった。
些細なこと。ご飯は何がいいかと問うLINEがいつもより遅かった。帰るとごめんと言って2人が大好きな唐揚げ定食を差し出した。
起きると彼は真っ赤に染まっていた。
些細なこと。名刺を握り潰した私は永遠に連絡などしない。彼との一つ一つが、私にとって大きなことだから。
些細なことでも。目をつぶっても、開いても、世界は真っ赤に歪んでいる。