"素足のままで"
"注文の多い料理店"にて。
靴の泥を落として、靴を脱いで。
次いで、靴下を脱いでクリームを塗り込んだ紳士二人は、床にペタペタとクリームの足跡をつけながら先へと進んだのだろうか。
もし首尾よく人間を食べることに成功したのなら、山猫は食べたあと床のクリームの跡を掃除するんだろうか。
その様を思い浮かべると、なんだかじわじわ面白い。
"もう一歩だけ、"
"もう一歩だけ、歩み寄ってみないか。
そうすれば未来はきっとより良いものになる"
そんなことを言うあなたは、こちらに歩み寄ってはくれないんだね。
じゃあ、なんでこちらが譲歩しないといけないのかな。
所詮あちらとこちらは違う側。
あなたと僕の一歩の重さは違う。
あなたが軽く言うその一歩は、僕にとっては耐え難いものなんですよ。
あなたは知ろうともしないでしょうけれどね。
"遠雷"
何処かで、低くこもった音がする。
真っ暗な窓の向こうでチカリと何かが瞬いた気がして、自席に向かう足をふと止めた。
窓を開けると、まだまだ暑い空気が湿気を伴って流れ込んでくる。
折角冷房効いてるのになんで窓を開けるんだよ、という同僚の非難を無視して耳を澄ませた。
風に乗って聞こえてくるのは、遠雷のような打ち上げ花火の音。
そう言えばもうそんな時期だったか。
毎年、花火大会開催のチラシを目にしているはずなのに、この音を聞いてようやくその存在を思い出す。
後ろからヒョイと顔を出した同僚の一人が口笛を吹いた。
「お、花火か。良いねえ。丁度キリいいし、あとは明日に回して観に行くか」
いそいそと片付けを始める姿に周囲からブーイングが巻き起こる。
「仕事を切り上げて遊んでたなんて知られたら、また奥さんの雷が落ちますよ」
「バレないバレない。落ちるか分からん遠い未来の雷より、現在の花火が大事だろ。あとビールと屋台飯。
……よし終わった、じゃあお疲れ〜」
野次が飛んでもなんのその。
鼻歌混じりに去っていく姿に、残った面々で顔を見合わせた。
「あいつ、死んだな」
「絶対バレるだろ。というかオレが密告してやるから怒られろ」
「俺も花火観に行きたいのにずるい」
騒ついた室内の空気に溜め息を吐き、開けた窓をパタンと閉じる。
「帰れる人は早上がりしたらいいと思うんですが。
まだ帰れない人も多いでしょうから、こっちはこっちで休憩がてら花火鑑賞しましょうか。
屋上の使用許可取ってきます。ひと段落着いた人から食べ物・飲み物持参で上がってきて下さい」
そう言うと、歓声が上がった。
"Midnight Blue"
万年筆の洋墨の色。
黒よりも青系統をつい選んでしまう。
"なぜ泣くの?と聞かれたから"
昔の話を聞きたがったのは貴女の方だったのに。
その瞳からほとほとと零れ落ちる涙が不思議だった。
どうして泣くの?と聞くと、
君が泣かないからだ、と貴女は涙声で言った。
なに笑ってんだよぉ、と力無く頬を抓られて初めて、自分が笑っていることに気付いた。
別にね、辛くなんて無かったんだ。
本当に。
だって、それは当たり前のことだったから。
それでも、貴女が泣いてくれたことがなんだか嬉しかったんだ。
頬を緩くつまむ手を外させて、背中をポンポンと撫でると、泣き声が更に大きくなった。
透いた緑に編み込まれた柔らかな赤の音色が綺麗で。ずっと見ていたいな、と思った僕は、いつかの誰かに言われた通りやはりどこか壊れているんだろうか。
こんな人間に好かれた貴女は心底可哀想だと思う。
だけど、もう手遅れだ。
ぎゅっと抱き締めた手に力を込めて、
もう二度とこの手を離してあげられないなぁ、と苦笑した。