"そっと包み込んで"
今年も、暑がりと寒がりの壮絶な戦いが始まった。
エアコンの温度調整権を巡る水面下の熾烈な争いだ。
一気に室温を下げる者、容赦なくスイッチを切る者、さりげなく1℃ずつ温度を変えていく者。
人それぞれ、性格が出るよね。
ちなみに僕は上着を羽織って調整する派だ。
エアコンの温度には手を出さない。面倒だし。
今日もまた、ガンガンに冷やされた空気を前に争いの火蓋が切られる。
無言で羽織った薄手の上着が、ギスギスした職場環境に冷え切った心をそっと包み込んでくれた。
"Sunrise"
ストラディバリウスの一つに、Sunriseという愛称を持つものがある。実物はアメリカのスミソニアン博物館にあるんだっけ。
3Dプリンターで構造を再現した楽器を作るという試みがあり、そのモデルとなったものがSunriseだった。公開された音色を聞いた際、同じ構造のはずなのに響きが違うように感じられたのが不思議だった。
技術の進歩は喜ばしいけど、名工の技術が大量生産されるような世の中になるのは味気ない。
職人さんが心血を注いで生み出したものには、やはり相応の特別さが宿っていてほしいと思ってしまう。
"空に溶ける"
貴女が空に溶ける、その日までは
どうか笑って過ごせますようにと。
ずっと、そう願っていた。
選択肢は目の前に提示されていた。
たったひとつを捨て去れば楽になれると、早く解放してあげた方が貴女のためだと分かっていた。
でも、どうしても、それだけは出来なくて。
苦しくて喉を押さえる。
口から零れる音は言葉にならず、虚しく中空に溶けて消えていった。
みっともなくボロボロ涙を溢す僕に、病室のベッドの上で目を閉じた貴女は何も言ってくれない。
温かいままの手を握りしめて、ただ泣き続けた。
"まって"
雲ひとつなく晴れ渡った、暑い日だった。
朧げな記憶の底から引っ張り出した顔は、逆光で黒く染まって視線の在処すら定まらない。
一歩踏み出す。
引き摺られるようにして、更に二歩、三歩。
容赦なく照りつける太陽の下、ただ歩いて、歩いて。
何処へ行くのかと問うても返事はなく、痛い程こちらを掴んだ手が暑さと疲労に倒れることすら許さない。
その果てにどんな世界が待っているのかも知らずに、ただひたすらに歩き続けた。
"手放す勇気"
手放すということは、捨てるということだ。
いくら聞こえの良い言葉で飾っても、結局はそういう事だろう。
自分の事情と天秤にかけて捨てることを選んだのであれば、せめて振り返るべきでは無い。
自分の意思で手放したものを惜しむなんて、どれだけ傲慢なんだろうと思ってしまう。
"あなたのために"
"あなたを思って"
そんな戯言をのたまうくらいなら、口を閉じて大人しく憎まれる余地くらい残してやれ。