"風が運ぶもの"
今日は残業調整で早上がりの日。
タイムカードを切って扉を開けた瞬間、外が明るい事に違和感を覚えた僕はもう駄目だ…。
すぐに帰宅するのは勿体無くて、いつもと違う道を通ると、いい匂いがした。
ベビーカステラの焼ける匂いって何であんなに惹かれるんだろう。風に乗って遠くまで運ばれてきた匂いにつられて、つい購入してしまった。おまけだとこっそり増量してくれた店主に礼を言って受け取る。
のんびり歩きながら口に放り込むと、懐かしい味がした。
昔、貴女と一緒に屋台巡りをしたなぁ。
ベビーカステラと今川焼きのどちらを買うかで真剣に悩んでいる貴女に、どちらも買えばいいじゃん、と言って怒られた記憶がある。
結局、両方買って半分こにした。
体重が…と言いつつ、美味しいと幸せそうに頬張る姿は忘れられない。全然太っているようには見えないし、気にせず食べたい物を食べればいいと思うのに、乙女心は難しい。
"question"
ブロック体で q を書くと何となく違和感があるけど、筆記体の qu は書きやすい。
"question"、"Be quiet"、"quality and quantity" とかね。
手書きで英字を書く時は専ら筆記体だなぁ。
その方が速いし書きやすいんだよね。
ただ、文献や資料で読み易いのは断然ブロック体。
筆記体は結構その人独自の癖が出るから、
"これ、なんて書いてあるんだ…?"と解読に苦労する事がある。
調べ物の最中に更にquestionが増えるなんて笑えないよな。
"約束"
コーヒーには砂糖をスプーン二杯、ミルクをクルリとひと回し。
紅茶は砂糖を一杯だけ、ミルクか檸檬かは気分次第。
マグカップの温かいココアには真っ白なホイップクリームをたっぷり浮かべて。
貴女に飲み物を淹れる時のお約束。
貴女のおかげで飲み物を淹れるのは上手くなったけど、貴女好みのコーヒーは僕にはちょっと甘すぎる。
いつもの手癖で砂糖を入れた後に気付くんだ。
"ひらり"
ひらりと舞う花弁が水面に落ちた。
花びらを起点として緩やかに波紋が広がり、
幾つもの綾を成す。
空を映す水鏡は崩れ、それでも新たに描かれる景色は例えようもなく美しい。
以前はよく花見に行った。
咲き誇り、上から降る花に歓声を上げる人波の中で、ひとり散りゆく花の末ばかりを見ていた。
"誰かしら?"
柔らかな光に照らされた真っ白な病室で、祖母は僕を見て困ったように首を傾げた。
ええと…、誰かしら。
ごめんなさいね。最近忘れっぽくて。
あ、もしかして娘のお友達?
もし知っていたら教えて頂きたいのだけど、わたしの夫と娘は何処に行ったのかしら。
唇が震えるのを感じた。
否定したかった。
あなたの孫だと言ってしまいたかった。
でもね。
忘れたままの方が、幸せだと思ったから。
あなたの娘はとうに居なくて、あなたの夫もつい最近亡くなったんだと、この無邪気に笑いかける人にどうして言えるだろうか。
分かってた。
それを選べば、もう、祖母の目に僕が僕としてうつることは無いのだと。
それでも。
あなたがそれを望むなら。
それであなたが笑ってくれるのならば。
僕は、僕じゃなくてもいいと思ったんだ。
後ろ手に閉じた扉に、力無く凭れかかる。
ぐるぐると、色んな感情が渦巻いては言葉にならず、ただ奥歯を噛み締めた。
僕は、何だったんだろうなぁ。
何年も、そばにいた。
祖父が亡くなってからは僕なりに祖母を支えてきたつもりだった。
でも、結局、祖母の中にいるのは僕じゃない。
どこまでいっても祖母の家族は夫と娘の二人だけで。僕の居場所なんて何処にもなかった。
誰にも望まれず、誰の心にも残れない。
きっと。最初から。
生まれてきたことが間違いだったんだ。
…馬鹿だなぁ、本当に。
呟きは、誰にも届くことなく消えていった。
涙は、零れた端から色を失くした。
窓越しの歪んだ青い空を見上げて、
まるで、水の中にいるみたいだと、そう思った。