【ただいま、夏。】
響いた声は遠いあの日に置いてきた
懐かしいあの夏の日
君と出会い別れたあの夏の日
さざなみの音も濡れた肌も
ついさっきのことのように思い出せる
だけどあの日に帰れはしなかった
君がいないから
一人で見る海は物悲しく
平気なふりをしてばかりの毎日に
あの日に帰りたいと幾度となく思った
帰ることは許されない
大人になった私はよく分かっているのに
あの夏の日を思い出してばかりいる
かかった影に顔を上げれば
記憶の中の懐かしい君が大人になっていた
驚きと歓喜のあと、あの夏の日のきらめきが戻ってきた
君と会えた瞬間
あの日で止まっていた時間がまた動き出した
ただいま、夏。
【ぬるい炭酸と無口な君】
同じクラスの氷上は、中性的でとても綺麗な顔をしていた。無口な方だから、クラスのやつらも僕もほとんど話したことがなかった。みんなと昼ご飯を食べることもなく机に突っ伏して寝ていて、何を考えてるのかもよくわからなかった。
僕は氷上の存在が密かに気になっていたが、話しかける勇気はなく、決まった友達とつるんでばかりいた。
氷上は、ここ一週間ほど高校を休んでいる。理由は「体調不良」というぼんやりしたもののようだ。
僕は今日、「氷上がしばらく休んでいるから、これを持って行ってやってほしい」と担任にプリントを数枚渡された。
担任によれば、「氷上は頭がいいから期待している、休んでいるあいだに勉強が分からなくなったりしたらもったいない」のだそうだ。
そして僕に、お前は真面目だからノートもちゃんと取っているだろう、最近受けた授業の分を見せてやれ、と言ってきた。
進学校だし、担任は自分の受け持つ生徒を一人でもいい大学に入れたいんだろう。そうすれば必然的に自分の評判もよくなるというわけだ。
僕は心の中でため息をつきながらも、一言「分かりました」と優等生然とした答えを返した。
僕の友達によれば、氷上は両親を亡くし、高校生にして一人暮らしをしているらしい。
担任に教えられたアパートの二階、日当たりの悪そうな角部屋。氷上の名前どころか誰の名前も書いていない簡素なドアに緊張しながら、僕はチャイムを押した。安っぽく軽いピンポン、の音がした数秒後、不用心にもすぐにドアが開く。
「……えっと、あれ……同じクラスの……」
「神崎。突然来てごめんな」
氷上はさらさらとした黒髪を撫でながら視線を泳がせる。照れくさそうにも気まずそうにも見えた。制服ではなくグレーのシャツを着ているのが新鮮だ。
元々色白の氷上の顔はさらに蒼白く見えたが、体調が悪いせいなのか、グレーのシャツとの対比のせいなのかは分からなかった。
「体調はどう? 先生も心配してたよ」
「ああ。まあ、大丈夫」
「これ、プリント。勉強についていけなくなると困るだろって」
「ああ……」
僕がプリントを差し出すなり、氷上の顔が曇った。仕方なさそうに受け取って、虚な瞳で眺めている。
「あとさ、僕が取ったノートでよかったら貸すよ」
「え?」
「氷上が写したらまた明日取りに……あっ」
言いかけて気がついた。明日も授業があるんだから、僕はノートを使わなければならないじゃないか。
僕が困っていると、氷上が提案してきた。
「今、写させてもらってもいい?」
「えっ。ああ、うん」
「でも、うちにはコピー機とかないんだ。悪いけど、手書きで写すから時間かかると思う」
「そっか……じゃあ待ってるよ」
「……そんなところで待ってるわけにもいかないだろ。入って」
結局、氷上に言われるまま、部屋の中にまでお邪魔することになってしまった。
小さなテーブルの前で正座していると、不意にペットボトルが手渡された。
「それ飲みながら待ってて。冷たくないけど」
氷上は少し笑ってそう言うと、ノートを写しはじめた。
「ありがとう」
僕はお礼を言ってペットボトルをよく見る。貼られているのは有名な炭酸飲料のラベルだ。
飲んでみると、やはりぬるかった。夏だから冷えた炭酸飲料を飲みたいところだが、仕方ない。
「待たせてごめんな」
「え! あ、ううん」
「しかもその炭酸、ぬるくてまずいだろ」
氷上はノートを書き写しながら、こちらを見ずに言う。
「うち、冷蔵庫壊れたんだ。全然冷えないから今は使ってない」
「壊れたのって、いつ?」
「半年くらい前」
「え!?」
じゃあ、氷上は半年も冷蔵庫を使っていないのか。冷蔵庫を使わずに普段何を食べて……と思ったところで、氷上が昼ご飯を食べていないことを思い出した。
まさか、冷蔵庫を買う金がなく、食べるものを満足に買うこともできず、仕方なく昼ご飯を食べずに過ごしているんじゃないか?
そういえば、ここで僕と二人きりで話している氷上はそんなに無口ではない。本当は氷上がみんなの輪に入ってこないのも、無口なせいではないのかもしれない。昼休み、みんなと一緒に食べるご飯もないのに、机をくっつけて一緒に過ごすことなんて僕ならできない。
「氷上、あのさあ」
「ん?」
「ちゃんとご飯、食べられてる?」
「……」
「嫌な気分にさせたならごめん。氷上は一人で暮らしてるって聞いたから、心配になって」
氷上は口を固く結んでいたが、やがて微笑み、
「俺が体調崩したの、栄養不足なんだってさ」
と言った。
「そうなの?」
「俺、たまたま親戚に会ったときに倒れて、そのまま病院に連れてってもらったんだ。検査したら、医者にいろいろ栄養が足りてないって言われて、点滴になった」
やっぱり、ちゃんと食べられてないんだ。僕の手の中のペットボトル、ぬるい炭酸――氷上はこれを、どんな気持ちで僕に渡してくれたんだろう。少しでも氷上の状況をよくしたいと思い、僕は質問する。
「親戚の人に、冷蔵庫や食べ物を買ってもらうのは難しいの?」
「いい人たちだし、病院代も払ってくれたけど……そっちはそっちで生活が苦しいから、これ以上のことは頼めないよ」
「でも、それじゃ氷上が、」
「よし。写し終わった」
氷上が僕の言葉を遮るように言う。それからノートを差し出しながら「ありがとう」と言って笑った。整った綺麗な顔立ちに同性ながらドキッとして、僕は氷上と目を合わせずにノートを受け取った。
「俺、これからバイトがあるんだ」
「バイト……そうだよね」
一人で暮らしている氷上が、バイトもせず高校に通えているわけがない。けれど、この生活はすでに壊れかかっている。
「どんなバイトしてるの?」
「……工事現場の手伝い……かな」
「そんな、食べられてないのに力仕事なんて――」
「だったら、他にどうすればいいんだ?」
氷上は半笑いで言って、僕を見つめる。僕を蔑むようにも羨むようにも見える瞳が悲しかった。
「俺のこと、心配してくれるのはありがたいけどさ。神崎が俺の代わりに何かしてくれんの? 俺、金がなかったら今日の夕飯だって食べらんないんだよ」
「そ、それは……」
「誰だって結局、自分が一番だろ。神崎も、親戚も……俺だってそうだ」
「……そうだね。ごめん」
僕には、氷上の状況を知ったところで何もできない。バイトをしたこともない僕は、親の金で高校に通っている。親の金でご飯を食べて、親が所有する家に住んでいる。そんな僕が氷上を助けることも、氷上の生活の仕方を咎めることもできないじゃないか。
「神崎は幸せなんだろ」
「え……?」
「俺は生活するために自分の体使うしかないんだよ。いくら腹が減ってても、倒れても、他に方法なんかないんだ」
氷上は優しい口調で言って目を伏せた。長い睫毛と高い鼻、透き通るような肌。その美しい横顔に見惚れていたら、ふと氷上の首筋に赤い痕が三個ほどあることに気付いた。これって――。
「今日はありがとな」
僕は何も言えず、ただ頷いた。ノートと飲みかけの炭酸飲料を鞄に閉まって、部屋を出ようとしたところではっとする。
氷上はこのあと、「バイト」だって言ってた。
「氷上!」
「ん?」
「あの。今日のバイト……って休めない?」
「は? ……なんで」
氷上は困惑したように眉を顰めた。
「夕飯、僕の家で食べない?」
「えっ」
「親に許可だけはもらわないとだけど。母さんは、友達が来るって聞いたら張り切ってご飯用意してくれると思う。父さんだって、僕が友達を呼ぶって聞いたら歓迎してくれるよ」
「そんな、悪いだろ」
「氷上を助けるためには、今は親に頼らなきゃいけないけど……僕も近いうちにバイトする。そうしたら、たまに氷上とご飯食べられるくらいには稼げるんじゃないかなって」
驚いたように目を丸くしていた氷上は、ふっと笑うと「ありがとう」と言って笑顔を見せた。目の端からは次々と涙がこぼれてくる。
「……俺、ホントはバイト、行きたくなくて」
「うん」
「やめたくて、でも、やめたら生活できなくて」
「うん」
「だけど、これっていつまで続くんだろうって……高校も卒業できなかったら、仕事なんてもっと選べないから……でも、俺はもう、勉強もバイトも家事も……全部、ちゃんとなんてできなくって――……!」
僕は思わず氷上を抱きしめた。一人きりで誰にも頼れず、それでもそこに存在している氷上を安心させたかった。
「……神崎?」
「大丈夫、氷上は一人じゃないよ」
さらに強く抱きしめて耳元に囁く。動いた拍子に、貰ったぬるい炭酸飲料が鞄の中で微かな水音を立てた。
【波にさらわれた手紙】
波打ち際で遊び疲れて
君と笑いながら座り込む
汚れた手のひらを見せ合って
水平線に日が沈んでいくのを眺める
こっそり砂浜に書いた
「好き」の文字を振り返る
波が寄せては返すたび消えていく
自分の口から伝える勇気など
持ち合わせてはいないから
この夏だけの恋にして
今は君といられる一瞬に溺れていたい
君の屈託のない笑顔は泥まみれで
きっと思い出になるであろうその顔を見つめて
また笑った
【眩しくて】
はっきりとした口調
凛とした瞳
論理的な説明
冷静な判断
あなたは完璧で
人を寄せ付けないようなオーラがあって
その横顔さえも冷たく見えるのに
迷い込んできた野良猫を見るなり
きつく結ばれた紐がほどけるように
ふんわりした笑みを浮かべるから
胸がきゅっと痛むくらい
あなたを眩しく感じるの
【またいつか】
またいつか会えたらいいな
そんな日は二度と来ないと分かっているのに
どうしても願ってしまうんだ
君を忘れられないから