『高く高く』
私には嫌いな人がいる。最初のきっかけが何だったのかと尋ねられるともう思い出すことはできない。何か些細なことからだったような気もするし、決定的な何かがあったのかもしれない。もう長い時間が経って思い出せなくなってしまった。それだけ嫌いな人物でも自分の身の回りにいてお互いに立場を変えることができないのなら関わり続けなければならない。可能な限り相手とのかかわりを減らそうと努めてみるものの、どうしてもほんのわずかとはいえ相手との道が触れてしまうことがある。だからこそ、そのわずかな邂逅時の相手の一挙手一投足に苛立ちを覚えるし、忌避感は高く高く積みあがっていきもはや天井知らずになってしまった。ここまで来てしまったら、きっとどちらかがその人生の終わりを迎えるまで付かず離れずよりはもう少し遠い距離感を保ち続けていくことになるのだろう。早いところストレス耐性を高めるためのトレーニング装置とでも割り切ってやっていけるようになりたいものだ。
『鋭い眼差し』
目が怖いと私は良く言われる。どんな時でも鋭い眼差しをしていて怒っているように感じるとも。そのせいか私の周りには友人と呼べるような人はあまりいない。
遠くのものが見えにくくなったと初めて感じたのは数年前、寝転がって本を読んだりテレビを見ていたりしたツケが回ってきてしまった。慌てて眼科を受診したところすぐさま眼鏡を作ることを勧められた。眼鏡デビューをして数か月後、あっという間に合わなくなってしまった。成長期にありがちな急激な視力低下とのことだった。レンズを交換してもらったものの、一度落ち始めた視力は坂道を下るように下がり続けた。さすがに頻繁に交換するとレンズ代も馬鹿にならないため、どうしても見えなくなった時以外は交換せず、高校以降でのコンタクトデビューが決まった。
そう、私の眼差しが鋭くなってしまうのは目を細めなければ見えないことが多いからだ。そして元来柔和な顔つきではなく身体も大きいため、どうしても怖く見えてしまうのだろう。それをわかって仲良くしてくれる友人はいるが、いちいち会う人会う人に説明などしていられないため、歩けばまるでモーセ状態だ。もう慣れてしまったが、それでも早くコンタクトに移行したいという想いは日増しに募るばかりである。
私は感情を表に出すことがどちらかといえば苦手な方だ。もちろんうれしいことがあれば喜ぶし、悲しいことがあれば涙を流しもする。ただそれも、周囲に誰もいないときやいても親しい友人や家族などの一部の人の前だけという注釈がつくことがほとんどである。その心は言ってしまえば非常にシンプルである。恥ずかしいという感情が先行してしまう、ただそれだけである。そのせいで苦労することももちろんある。大勢の人の前で感想を聞かれたときに、もどかしい思いをするというのがその最たる例だ。だから私はいわゆる男泣きできる人物を尊敬する。子どものようだなんて思いはしない。自分の中でどうしても悔しいことや嬉しいことがあってその感情を表で表現している姿はかっこいいとさえ思う。今更性格を変えることができるとは思えないが、せめてもう少し感受性豊かであれるようにしたいとは思っている。あくまで今は思っているだけだが。
「「さようなら。」」室長の号令にあわせて挨拶をする。今日もこの時がやってきた。教室から我々が解放される瞬間が。そう、放課後である。準備の多い野球部の男子や早く帰宅したい人たちが鞄をつかんで教室を飛び出していく。慌ただしい彼らを見送りながら私はのんびりと同じ部活の仲間のもとに向かう。「おっす~。」「うぃっす~。」そんな緩い感じで一人また一人と集っていく。数分後いつものメンバーがそろい、部室に向かって歩き出す。話題は専ら今日の練習のことだ。主な練習メニューの確認に始まり、今日は顧問がやってくるのかどうかにまで話は広がっていく。やはり顧問の有無はその日を大きく左右するため、全員が真剣に情報を共有していく。時間をかけて議論し部室に到着した時に出た結論は、今日は来ないだった。この結論に至ったとき、私たちは歓声をあげる。なぜならこの放課後は素晴らしいものになることが確定するからだ。気の合う仲間たちと部活にほどほどに打ち込む。なんと素晴らしい青春の一コマだろうか。というか何が悲しくて怒鳴られながらへとへとになるまで部活をやらなければならないのだろうか。しかし、現実とは無常なものでこんな日は週に一度あるかどうかである。だからこそ、私たちは今日の放課後を大切にする。明日もこうであってほしいという叶わぬ願いを抱きながら。
どんな日、どんな場所でも欠かさないルーティンがある。それがカーテンの開け閉めだ。朝起きて布団から出たらまずカーテンを開けるし、夜暗くなってきたら閉める。これは出先のホテルでだって変わらない。寝起きで回らない頭を目覚めさせるのに太陽は効率的とよく言われるがこれは本当にその通りだと思う。少なくともカーテンを開けることを徹底するようになってからは二度寝してしまうことも無くなった。それに陽の光によって室内が明るくなり気分も明るくしてくれる。
逆に夜は防犯面で役立つのがカーテンである。部屋の明かりによって外から丸見えになるのを防いでくれるため、電気を点ける際には必ず閉める。
ほんのちょっとした事ではあるが、これだけで1日の流れを感じることができるため私はこの作業が好きだ。だから私は今日もカーテンに手をかける。
なぜ、私は今泣いているのだろうか。あれだけ悲しいことには慣れてしまったはずなのに。私はこれまでの人生の中で幾度となく悲しい思いをしてきた。学生時代には散々いじめられてきたし、まともな連絡手段を持っていなかった頃に仲が良かった友人が遠くに引っ越していってしまったこともある。これ以上挙げるのも億劫なほどショックを受けてきたし、そのたびに泣くこともたびたびあった。そのかいあってか、今では多少のことでは動じなくなってきたしある程度のことであれば笑って流すことができるようにもなった。そのはずだったのに私は今涙を流してしまっている。
祖母の容体が急変したという連絡がきたのは2日前のことだった。そこからは坂を転げ落ちるようにどんどん悪くなっていき、いよいよ今夜だろうと告げられる段階まで来てしまった。その報に驚き慌てて最後に顔を見せるために、今私は病室を訪れている。一人一人がきちんとお別れを言うことができるように周りに誰もいないことも相まって様々なことを伝えることはできた。そのうちに気が付いたら涙を流していたのだ。もう彼女の声を聴くことは叶わない。そして私に与えられた時間も残り少ない。だから最後に一言、「ありがとう。」