夢のなかだ、とすぐに気が付いた。
明晰夢というものを割とよく見るたちで、そういうときは決まって、マンゴージュースのような烈しい橙色の夕陽に染まる自室に立っている。今日も、電気を消して暗闇にしたはずの部屋が、目にも鮮やかなオレンジ色に変わっていた。
すると突如、電子音が響き渡る。少し考えてから、それが聞き慣れたスマホの着信音であることに気付き、特に慌てることもなく部屋着のポケットに手を入れると、やはりそこには硬く薄い感触があった。
取り出したスマホの画面では、起きているときと同じ、着信を訴えるアイコンが踊っている。「非通知」と表示されているのが、いかにも夢の中という感じがして、お約束加減に少し笑ってからアイコンをタップした。
耳を澄ますと、電波の悪いラジオのように、ひどくノイズ混じりの音が聞こえた。
──し、もし、もしもし、聞こえますか?
聞こえますよ、と返事を返すと、電話の向こうで安堵したように息を吐き出す気配がした。
聞こえた声は、機械音のようで、性別はおろか人間なのかすら判別できない。
──やっと、繋がりました。あまり時間がないので手短に。突然ですが、わたくしはあなたの生まれ変わりです。驚きますよね、ごめんなさい。
はあ、という気の抜けた声が出た。夢にしても、今日はあまりに突飛だ。驚きすぎて、逆に冷静になってしまう。
──死後の世界やら来世の有無について議論する余裕はないので、どうかただわたくしの言うことを聞いてください。あなた方は知らないけれど、あなたたちが過ごす時間は一定期間のループの中にあります。
SFっぽくなってきたな、と冷めた感想しか浮かばない。
──いつからいつまでがループなのかは検閲事項のためお教えできませんが、結論から言うと、昨日の日没をもって既存のループは終わり、明日からは別のループに突入します。
そうなんですか、と言う以外に何が言えただろう。
──そして、誠に残念ながら、あなたは次のループの中で命を落とします。もちろん寿命ではなく。
死ぬんですか、私。今更だが、これは本当に夢だろうか。
──いつどのように死ぬかについても、やはりお伝えできません。申し訳ありません。ただ、来世のわたくしからひとこと申し上げます。
なんでしょうか、と初めて返答と呼べる言葉を返すことができた。
──なんの心配もいりません。怖くないですよ。だけど、食べたかったものは食べて下さい。見たかった映画やドラマも見ておいて下さい。いつか読もうと思っている本も、読めるだけ読んで下さい。言いたいことがある人には、それを伝えて下さい。とにかく、考えうる限り、未練が残らなそうなことをしてください。あなたの未練がひとつでも減れば、生まれ変わりであるわたくしも……。いえ、なんでもありません。ああ、時間です。さようなら、前世のわたくし。検討を祈ります。
最後にまた耳障りなノイズを発して、不可思議な声は聞こえなくなった。無音のスマホを握りしめて立ち尽くす。
あんな話を信じるのは馬鹿馬鹿しいことだと思えたが、それでももし、万が一にも本当だったとしたら。
目覚ましの音で目が覚めた。
部屋はオレンジ色などではなく、当たり前だがカーテンの上部から漏れる朝日しか見えない。
緩慢に身体を起こして、ひとつため息をついた。なぜか急に納得したのだ。
よし、結果がどうであれ、後悔を残さないことに全力を注ごう。死ぬのは今日なのか明日なのか分からないのだから、とそこまで考えて、そもそも私達はあの妙な警告がなくとも、いつ終わるともしれない生命を抱えて生きていたんだった、と今になって実感した。
さあ、文字通り、死ぬ気で生きてみようか。
(昨日へのさよなら、明日との出会い)
「この泥が あればこそ咲け 蓮の花」
隣で、いつものことながら文庫本に視線を向けたまま、ひとりごとのようにつぶやく幼馴染みの声に顔を上げた。
「なに?」
「与謝蕪村よ。好きなの」
へえ、と気がない返事を返すも、彼女は特に気にしたふうでもない。凛と伸ばされた背を覆う艶のある黒髪は、あつらえたように彼女という人間に相応しかった。それが、深夜のコンビニがお似合いの、あたしのような女と一緒にいるのだから、通り過ぎる人々が気遣わしげな視線を投げかけるのにも頷ける。
隣に顔を向けると音もなく視線がかち合い、その見るものを一瞬で虜にしてしまうような、たおやかな笑みを、つい無防備に受け止めてしまった。これは彼女の昔からのもので、狙っていない天性のものなのだから、この世は狂っている。
「ねえ、あなたはこんな泥水みたいなわたしのそばにいても、ずっと咲かない蓮でいてね」
「何言ってるの、あたしは蓮じゃないし」
「いじわるね。たとえのお話よ、分かって?」
ふつふつと湧き上がる憎らしさを苦労して飲み下し、脚を組み替える。癖で爪を噛むと、嫌な音が頭に直接響くようだった。
彼女はずっとこうだ。
地元を出て進学し、早々にアイドルのような新入生がいると聞いたときに、胸に広がった嫌な予感は的中してしまった。彼女は今やキャンパス中の有名人。誰しも、あたしのような奴といるべきではない、清らかな天上の花のように捉えていることだろう。澄み切った泉に咲き誇る、美しい花だと。
浮かんだ考えに、冗談じゃないと舌打ちをした。この子は、地上のすべての植物を悪気なく枯らす猛毒なのに。それを誰も知らない。あたし以外、誰も。
あんたは誤解をしている。あんたは一生泥水などにはなれない。その残酷な清涼さでもって、あたしを決して芽吹かせない清い水がお似合いだ。そして一点の濁りもない友人たちに囲まれて、咲けない蓮にでもなってしまえ。
憐れまれているのを知ってか知らずか、彼女が肩をすくめて、例の笑顔を浮かべた。
(透明な水)
それはまさに思い描いていた姿そのもので、こんなお洋服を探していた! と手を叩きたいほどだった。
けれど、続けて目線でなぞった価格は、理想より桁が多かったので、その余計な最後の0を指で隠してみる。ついでにもうひとつ。
最終的に桁が二つ減ったそれは、まごうことなき完璧な一品。
ただひとつ難癖をつけるとしたら、指をどかせないことくらいだろうか。
(理想のあなた)
「いいな。いきなりとか、なんの前触れもなくとか、そんな具合に決別が訪れるひとは。ボクは生まれてからずっと、誰かと出会った瞬間、そのひとの背後にいつどんなふうにさよならするかが書いてあったから、会った瞬間からお別れの気分だよ」
内緒だよ、とくちびるの前に人差し指を立てる朗らかな笑顔を、呆然と眺める。
ねえ、私の背後には、なんと書いてあるの?
(突然の別れ)
眠れない夜に食べるコーヒーゼリーは、夜の味がすると思う。言うまでもないが、ミルクなんて入れない。
そんなことを考えていたせいかは知らないが、先程から食べても食べても、ゼリーがいっこうに終わらない。鋭く光る銀のスプーンで夜闇を掘り進めていくのに、どこまで掬っても底に辿り着かない。
明けない夜はない、と誰でもいいから月並みな台詞をちょうだい。カーテンの隙間から見えた満月に、ベ、と舌を出してやった。
(真夜中)