私にとってのギャンブルはお菓子やファストフード。
今日もお金がないのに、誰も訪れない部屋に不相応な量の出前を頼む。
それだけでは飽き足らず、近くのコンビニに向かい大量のお菓子を買い込む。
食べたいものを選んでいるんじゃない、食べたくないのに寂しさを満たすためだけに、買い込んで、溜め込んで、かき込んで、また、買い込んでかき込んで。
自分の健康を賭けて、寂しさを満たせるか試している。
こんなこと辞めてしまいたいのに。
たまには健康な生活をしたい。たまに、じゃなくてほんとはずっと健康的でありたいよ…
周りにもいくらかこのギャンブルにのめり込んでいる人はいる。しかし皆はこの行為を私みたいにギャンブルだとは思っていないかもしれない。皆も心の寂しさを紛らわしたいのかな。
とりあえず私の心が寂しいのです。
自業自得の死が先か、寂しさを他で満たせるようになるのが先か、、
今日も鈍行列車に乗って変わらない景色を眺めている。
僕みたいだなあ、っていつも思う。
季節や天気で多少みせる色彩は変わるけど、本来の姿はいつまでも変わらない。
僕だって多少の気分の移ろいはあるけれど、自身の軸は変わらないままだ。
僕が急行に乗ることはないだろう。
のろのろと進んでいても、いつかは目的地に辿り着くはずだから。
最近、自然に還りたくなる。
海の側へ行くとそのまま流れて行きたいし、川の側へ行くと海まで流れて行きたいし、山の側へ行くと土の中に戻りたくなる感覚を覚える。生きている感覚を忘れたくて、軽い現実逃避に浸っている。多分もうわたしは死んでいるんじゃないだろうか。何度も考えるけど、やはり自分はこの世に存在しているようである。暑さや寒さを感じるし、感情だって曲がりなりにもあるし、人肌恋しくなるし、孤独を感じるし…。まだ生きなければいけないという拷問に耐えなければ、望むような破滅には向かえない。自滅して社会的に死んでいる今、私はもっとも死に近づいているのか。社会的な死は自殺への第一歩なのかもしれない。
このままここで眠ることで、凍死できないかな。
海の側で寝たら、朝起きた時には溺死できてるかな。
しばらく食べないでいたら、餓死できるだろうな。
小さい頃から「死」のことばかり頭をかすめて、ずっと「死」を目標としている気がする。私は「生」に向かって生きることができないのかもしれない。
いつか死ぬなら頑張りたくない。楽したい。なんで皆生きようと足掻くことができるの。人間としての幸福を当たり前に望もうとできるの?
社会に背く自分が嫌になるのに、何処か優越感を覚えてしまうのがもう、変えようのない事実なのかもしれない。私は変われない。どうあがいても「生」の人間になれない。開き直っていっそもっと悪いことをしたい。犯罪すれすれの思考を持っていながら、普通に生きようとする自分に吐き気がする。もう誰とも関わらないで欲しい。これ以上他に悪影響を与えるな。「死」を一緒に望んでくれる優しい人を見つけようとしている気がする。それが私にとっての依存であるのだろう。ごめんね、こんな犯罪者予備軍放っておいていいんだ。なけなしの良心が心に訴えてくる。人の事をもっとちゃんと愛したいのに、私にはそんな能力が備わってないみたいで。
寂しい。孤独。誰か救って。厨二思考から抜け出したい。
依存先は沢山あるのに、分厚い壁は本音を隠している。どこでも上辺だけの関わり。自分の寂しさや孤独の捌け口。なんて傲慢な思考なんだろう。こんな人間がどうやったら生まれるのか。「死」についてもっと語りあいたい。「死」の間際まで誰か一緒に行って欲しい。これも本音じゃないな。どれが本音かも分からない。
人と関わってもどうせ壊してしまうから、もう関わりたくない。でも関わらないと生きていけない。嫌だ。やっぱり生きていたくない。誰かに好かれそうになると逃げたくなるし、嫌われるのは怖いし、無関心は辛いし、人間関係煩わしくて嫌。早く自然に還して…でもまだ生きていたい!
「ねえねえ、この話は内緒にしててね。」
そう言われて内緒にできたことがない。故に誰からも信用されていない。言い訳をするとするならば、本当に無意識のうちに言ってしまっているということ。悪気はないのでたちが悪い。口を滑らせる自身に非があるが、内緒なら最初から誰にも言わなければいい。しかし内緒事を話してくれるということはある種の信頼の証である。私の本心は実は裏切りに快感を覚える性格なのかもしれない。無意識のうちに裏切って、今まで築いてきた信頼を破壊することが本当は好きなんだよね?
こんなこと誰にも言えない。
まっすぐな言葉を伝えたいのに、溢れるのは嘘ばかり。
臆病な心を隠すために、今日も虚構の姿を創り出す。
全てを恐れているため、全てを疑う。
もう偽りの姿も板についてきた。
どうしてそんなに変わってしまったの、
と皆は言うけれど変わったのは皆の方だ。
世間の流れと反対を進む私は、変化を恐れているのだ。
他者と関わることで得られる幸せや、自己研鑽によって掴める肯定感等も私にはわからない。
ただ死に絶えるまで存在を消して生きるのみだと考えていた。生きることに執着などない。
それでも手を差し伸べてくれる人は必ずいるのだった。
その人達のために、何重にも変装した姿をやめて本当の自分をさらしたいのだ。
結局は生きることに執着している自分に気づいた。
いずれ自分も手を差し伸べる側の人間になれるだろうか。