気づいた時には、遅かった。
真夜中の暗闇を息を切らしながら走る。
行く場所など決めていない、とにかく逃げなければ。
俺は、ようやっと、彼女の目を盗んで逃げ出した。
最初は、ただ可愛い優しい女の子だと思っていたんだ。でも--
「どこに行くの? かくれんぼ? 鬼ごっこ?」
息をのむ。
俺の目の前に、逃げきろうとしていた相手がいる。
「なん、で……」
思わずそんな言葉が口をついて出た。
「なんで?」
女は、ゆっくりと俺の近くに歩みより、優しく俺の頭を撫でてくれた。
ぼたぼたと脂汗とも冷や汗とも言えぬ汗が俺の頬を伝う。
「私とあなたは、赤い糸で結ばれているからだよ?」
「その赤い糸は……切れたりしない?」
俺の問いに、ふふふ、と、女は笑った。
満月に女の笑顔が妖しく映った。
@ma_su0v0
【赤い糸】
あの大きなもこもことした雲が怖くて
あれに飲み込まれんと走って家路を辿った
もしあの大きな雲に追いつかれてしまったら
たちまち雷雨が降り注ぐ
それはもうトラウマになる程の怖さがある
昔の通な人達はそれを見て
やれ夏だ風流だと囃し立てるが
青空に突然あらわれたあの大きなもこもこ
そんなに良いものだろうかと
私は今も尚あの雲をみては走り出している
@ma_su0v0
【入道雲】
学生時代は、夏がくることを心待ちにしていた。
いや、正確には、夏休みがくることを心待ちにしていた。
バイトでいつもより稼いだり、海に行ったりキャンプしたり、祭りに行ったり、休み終わりの宿題ラストスパートもいい思い出だ。
田舎だったから、うるさいくらい蝉は鳴いてたし日差しはダイレクトにあたるし、かと思えば大空のキャンパスが雲に埋め尽くされてゲリラ豪雨に見まわれたり。
でも今は、夏はただくそ暑いだけの、夏休みもない社会人。
社会の歯車となって、飲食業だからお盆休みもなく馬車馬のように働くだけ。
上京したら、気がついたら蝉の声もとんと聞かなくなったし、大空はビル群の隙間から心ばかしみえるのだが、照り返しで暑さだけは一丁前、もちろんゲリラ豪雨もある。
昔はあんなに楽しみだったはずなのに、どうしてこうも夏のありかたが変わったのかと、せっかくの単休、突然の雨に傘を忘れて途方にくれた昼過ぎの俺だった。
@ma_su0v0
【夏】
ねぇ、パラレルワールド、って知ってる?
今ここにいる私とは別の、複数存在していると言われている、もしもの世界。
ここではないどこかの私は、もしかしたら大金持ちかもしれない。
ここではないどこかの私は、もしかしたら戦争に出兵しているかもしれない。
静かにぽたぽたと流れていく点滴液をぼんやりと眺めながら、私はそんなことを考えていた。
今の私は、全く身体が動かない。ただ息をしているだけ。生きているんじゃなく、息をしているだけ。
ここではないどこかの私、楽しんでいる? 私の変わりに輝いて生きてね。
@ma_su0v0
【ここではないどこか】
「お仕事いってらっしゃーい」
「ママー、いってらっしゃーい」
俺は、3歳になる息子を抱っこして、玄関で妻に手をふった。
新婚ならば、いってきますのちゅー、とかする所だろうが、子どももいる中結婚して7年もすれば、そんなこともしなくなる。
君は、いってきます、と、素っ気ない挨拶を返して、いつも通り仕事へと向かった。
扉の向こうは雨模様。ガチャリと鍵を閉めて行った。
「今日は、パパが休みだから、保育園のお迎えもパパが行くからな」
「ママはー?」
「ママはお仕事ー」
息子の小さな足に靴を履かせながら、そんな父と子の会話をしていた。
それから、2年が経った。
もう息子も5歳で幼稚園児である。
「ママはー?」
「ママどこ行ったのかなー?」
君と最後に会った日は、雨模様だった。
俺は、君は普通に仕事へと向かっただけかと思っていたのに。
俺の心の鍵も、あの日からしっかりとかかってしまっている。
だが、息子の前でそんな顔もしていられない。
「帰ってこないかなー?」
「帰ってこないかなー?」
俺の言葉を真似して息子も呟いた。
梅雨時期の空模様は、もちろん今日も雨だった。
@ma_su0v0
【君と最後に会った日】