「また明日」
「また明日」
確かそう言って別れた。今となっては曖昧だが、思えば軽率すぎる言葉をかけ続けた。
次にその友人と会ったのは通夜だった。これが彼なのかと思うほど見違えた姿で。自分が今どの感情でいるのか全く分からなかった。悲しいのか、怒っているのか、悔しいのか。ただ一つだけ、声も涙も出なかった。
彼はすっかり変わり果ててしまった。何を言っても目の前の石から返事はこない。なのに不思議と彼と遊んでいる時のような気分になる。変わらないものなんて無いんだろう。それが自分の望む変化であってもそうでなくても。だから自戒も兼ねて敢えて最後に石に言う。
またあした。。
「透明」
この世の中には透明なものは沢山ある。
ただ大抵のものの透明の意味は見えない、認識不能という訳ではない。
例えばガラス。色を聞かれれば透明というのが妥当だと思うが、ガラスを認識するのは容易い。枠があるから?ここにガラスがあるだろうと予想するから?
透明人間は存在するのだろうか?
私の回答はイエスだ。但しドラえもんの世界のような都合のいいものでは無い。
これを読み流す大勢の人にとって、私が未練を残すあの人にとって、彼らの認識の中に私は存在しない。今この瞬間も私という人間は呼吸をし、間違いなく生きているのにも関わらず。
シュレディンガーの猫は生と死の真ん中という存在を肯定されたが、観測者からすればきっと視界から消えた時点で猫は死んだと同義なのではないか。
つまり透明人間となってしまった私はもう死んでいる。
「理想のあなた」
理想の自分の像を想像したとき、今の自分とのギャップに打ちのめされてしまうことがある。よく言えばそれだけ伸びしろがあるとも言えるが、やっぱり出来るようになりたいけど現状出来てない点をリストアップしてへこんでしまう。千里の道どころか、千里の先にちゃんと繋がっているのかも分からない。
「継続は力なり」というのが最近の自分のテーマであり、課題だなと思っている。どこに繋がっているか分からないなりに1歩ずつ進んで行くことが大事かなと。
その結果が理想と違ったとしてもきっと後悔はないだろう。
「突然の別れ」
この言葉を聞いた時にすぐに思いつくものが何も無かった。経験としてないのは有難いことなのか不明ではあるけど、人にしろ物にしろ執着があまりないんだと思う。でも数少ない大切なもの、親とか兄弟との別れ(死別)を想像するのはなかなか酷だなと思った。だからと言ってなにか出来ることがあるかと言われると何も無い。親子とか兄弟という関係はあれどお互いに自分の人生というのがあるので、そこに干渉しすぎるのは野暮だと思う。突然の別れに対しては無抵抗ではあるが、それに屈服してしまうのも違うだろう。
「真夜中」
24時間営業のお店の存在によって夜中でも食べ物を手軽に手に入れることが出来るようになってしまった。
本来の動物本能からすれば光源も月明かりくらいしかなく、夜行性の生物でない限りは活動することすらほぼないはずなのだが、どんどん便利になり、それに恐ろしいほど適応し、当然のものとなっている。
ま、頭で理解している上で夜中にコンビニ行ったりファストフードを食べに行くのはある種の憧れに似た感情がある。健康上良くないとか、睡眠問題がうんぬんとかそんな罪悪感が逆に人をそういう行動に走らせるのだろうか。