サワサワと吹き込んでくる春風が桜の花びらを教室に運んでくる。
午前授業が終わった後特有の間延びした空気の中、純白のカーテンの裏でじっと空を眺めているリョウのスカートが、花びらと共にさらりと揺れる。私はリョウに話しかけるために、自分の体をカーテンと共に潜らせる。
「……何してんの?」
「……別に?」
リョウは平然とした様子で、目線だけを私に合わせてそう答えた。でも、その様子は、いつものミステリアスさとは少し違っていて、なんだかわざとらしかった。
「………抜けたんだっけ、バンド」
「………」
「まあさ、音楽なんて、これっていう形なんかないんだから、そりゃ方向性も違ってくるよ」
あたしのバンドは中学生の時には解散したしさあ、なんて笑い飛ばすけど、リョウは尚も空を見つめている。その雰囲気に当てられて私まで押し黙ってしまう。
「……虹夏はさ、何歳まで生きる、とか決めてる?」
リョウはこうやっていつも、突然訳のわからないことを言う。私は窓から半身を出しているリョウの隣で、同じ仕草で窓に凭れかかって少し神妙に、
「……80才、くらい、かな」
と答えてみる。するとリョウは少し驚いた様にこっちを見て、長いね、と呟く。
そんなものなんじゃないの?普通。てか、急になんなの?
と聞いてみると、リョウは今度は私の目を真っ直ぐに見据えながら、
「私はさ、自分が生きてる姿、25歳くらいまでしかイメージできないんだよね」
と言った。25才、なんだか中途半端な数字だ。
「何それ、後8年しかないじゃん」
「そう、後8年くらい」
そういってリョウはもう一度ぼんやりと空を見上げた。春の陽光に柔らかに照らされたリョウは、凄く美しいのに、凄く儚くて、そんなリョウの瞳を見ると、急に後8年、と言う単語が現実味を帯びてきた。私が次第に滲み出てくる不安に苛まれていることなんて全く知らないかのように、リョウは再び言葉を紡ぐ。
「こうやって、いろんなバンドを抜けたり入ったりしてると、凄い忙しないし、凄いしんどい時だってあるのに、終わった後に何も残らないんだなって気持ちになるんだよね。そうやって刹那的に生きてきたら気付いたら17年も経っちゃって、こんなに毎日毎日長いのに、まだ17年しか経ってなくて。そう思うと、私が死ぬまでって、後8年くらいなのかなって」
そういって淡々と、平坦な声音で自らの死期を語るリョウは、本当に、気付いたら空に吸い込まれそうな雰囲気を纏っていて、なんで神様はこんな日に限って空に雲を無くしてしまったんだろう、こんな空だったらすぐにリョウはどこかに連れ去られてしまうんじゃないか、そんな事を思って、なんだか胸がキュッとなった。リョウがいなくなるだなんて私は一回も考えたことが無かったのに、そんな未来を当たり前のように話す目の前の幼なじみが、少し怖かった。リョウに足りないのはきっと、居場所なんじゃないだろうか。そんな事を考えた、いや、本当はリョウがいなくなることが怖くて怖くてたまらない私が、ずっとリョウの隣で、その手を掴んで話したくないだけなんじゃないか、そんなことを思いながら、私はリョウにあることを打ち明けた。
「私さ、バンド組んで、有名になって、お姉ちゃんがやってるライブハウスを有名にしたいの。でも、まだ、私一人しかそのバンドのメンバーがいなくってさ。だから」
そこでもう一回一呼吸置いて、リョウの目をまっすぐと見る。
「だから、私と、バンド、組まない?私、リョウが弾くベースの音、好きなんだよね」
そう言い放つと、リョウは目を瞬かせて、正気?と聞いてきた。私が黙って頷くと、リョウは、少し宙を見つめてから、
「いいよ。バンド組もう、虹夏」
と言って、手を差し出してきた。幼馴染の仲なのに今更握手だなんて、普段だったら絶対に気恥ずかしい事だけれど、私はリョウの手を、しっかりと握った。空に吸い込まれそうなリョウを、私がずっと、斜め右前に留めていようと、そう考えて。
ひぐらしの鳴き声が辺りを埋め尽くす。
夏特有の、じっとりとした陽光が、プール沿いに立て掛けられたフェンスに凭れるクラスメイトと目線を真摯に合わせている貴女を照らし出す。私の瞳が、クラスメイトの彼の、付き合わない?といっている唇の動きを、精細に映し出す。貴女のその目線は、どこか夏の病に浮かされている様で、その頬は、あの空に浮かぶ雲みたいに桃色に色付けられている。とそこで私は、夏の病に浮かされているのはどっちだろうかと、はたと考える。高校2年生の夏という人生のゴールデンタイムに、クラスの中でも人気が高いあの子に告白されている貴女なのか、入学当初に偶々近くの席に居たから、という理由で分不相応なまま貴女の横に居座って、あろうことか同じ性別なのにもかかわらず、目の前の光景による胸の痛みを必死に押さえている私なのか。そう考えると、私はずっと彼女のことを好きだったのだから、私のこれは一時的な病ではないのかもしれない。じゃあなんなのだろう。こんなに苦しいのに、病じゃないのだろうか、これは。
そうやって私が俯いて地面に斑点を作り出している間にも、貴女は彼と会話を重ねていて、それはもう、見るのも苦しいくらいに楽しそうだった。明日どうやって接せればいいんだろう、なんて考えた瞬間、あの子の隣、という私だけの特等席を彼が奪い去るイメージが思い浮かんで、また、苦しくなった。彼氏がいるあの子の隣になんて、私が居られる訳がない。その直感が、私の胸を貫く。今までの彼女との思い出が、頭を駆け巡る。
ごめんね、とLINEにうちかけて、消す。彼氏できたの?とうちかけて、今度は連打して、消す。爪が液晶を叩くカツカツとした音が、私の心を、ハンマーのように打ち砕いていく。
暫くして、私は彼女に向ける言葉を何一つ思い浮かべられないまま、私は彼女をブロックリストに入れた。これ以上一緒に居ても辛いだけだ、どうせ住む世界が違ったんだから、なんて言い訳を、繰り返しながら。
「ねえ、このまま逃げちゃわない?」
骸とかしたかつて自分の親だったものに一瞥もくれず、貴女は私にそう微笑みかける。さっきまで、命だったもの。確かにお母さんが亡くなってからは、酒に浸りがちになり、私たち二人に暴力を振るうようになっていたが、それでも、お母さんが生きていた頃、まだ家族が健全なままだった頃の、あのお父さんの微笑みが、その優しい目付きが、光を失った眼孔にちらつく。
「ひかりも分かってたでしょ?こいつがなくなったお母さんの面影を私たちに重ねて、私たちを慰み物にしようとしてたこと。私がたまたま今日、夕飯を作ってたときだったから包丁を持ってたけど、私があの時駆け付けてなかったら、今頃、ひかりはお父さんとシテたってことになるんだよ?」
そういってカヤは、深紅に染まったその手を、鈍く光る包丁ごと、私の手に重ねた。
「わたしは、ひかりのことだいすきだよ。ずーっと、だいすき。さんじゅっぷんはやいけど、わたしがおねえちゃんだし、ずっと、わたしのそばでまもってあげたい」
自分の父親の血の生暖かさに、カヤの、梅雨の空みたいなしっとりとした囁き声が混じり合う。内容が、入ってこない。
「ねえ、その手。血で真っ赤じゃん。もう包丁にも指紋、ついてるだろうし」
包丁が見つかったら私たち、二人とも捕まっちゃうね。肩口で切り揃えられた元気そうな黒髪を軽く揺らして、カヤはそう、事も無げに私に笑いかける。カヤはそのまま、私の長い髪を、真っ赤に染まった血ですっと梳かして
「ねえ、逃げよう?ほら、急がないと誰か来ちゃうよ」
カヤはそういって、髪に伸ばしていた手をさりげなく腰に回して、そっと私を抱き締めてくる、その体温と、声音とは裏腹にバクバクと鳴り響いてる心音が、伝わってくる。二人の心音が、融け合って、同じ音になっていく。私たちは、これでひとつなんだって、本能が主張してくる。孤独が、泣きそうな声で離れたくないと、叫んでくる。腰に回された手を取って、固く結ぶ。