NoName

Open App
11/17/2023, 2:18:26 PM

あっちぃー!と、俺の三歩前を歩くお前が叫ぶ。夏の昼下がり、河川敷には人もまばらだ。ふたりの影は乾いた土に短く落ち、川の水が気怠げに太陽を反射している。
「家帰ってよぉ、アイス食べよーぜアイス!」
「ばーかっ、なんのための午後休みだっ!明日はテスト2日目だろうがっ!」
軽口を叩きながらふたりで図書館に向かう。寂れた自習室の、塗装がところどころ剥がれた机に並んで座る。年代物の空調から埃っぽい、ぬるい空気が出てくるだけで、時折ぶつかる腕は汗ばんでいる。
眉間に皺を寄せて、問題集と睨み合うお前。小さい声で昨日教えた公式あったろ、と囁くために顔を寄せると、柔軟剤と汗の混じった香りがした。
「なんだよ。嗅ぐなよ」
汗ばんでいた顔がより赤くなっている。
「あのさ、ここのエアコン弱くね?」
そう言うと無言で頷くお前。ひそひそ声に飽きたのか、ノートの隅っこに文字を書き始めた。
「でもお前と勉強できるとこ、ここしかない」
そーだよな。俺の家貧乏でエアコンなんてないし。ここより暑いし。お前の家、家っていうか住んでるとこ、他にも子供とか先生とかいっぱいいるもんな。
「こたつ買うかも」
カリカリと自分のノートの隅っこに、今日1番のサプライズを発表する。
「マジ!?」
お前が大きい声出すから、部屋中の肩が跳ねた。神経質そうなメガネの男がこっちを睨んでる。
手をメガホンの形にして、俺の耳元でお前が囁く。
「ふゆになったら、おまえんち行かせて!」
あぁ、この言葉聞きたくて、おれバイト頑張ったんだぜ。真夏のガソスタ、やべぇんだぞ。
「ま、呼んでやらんこともない」
馬鹿。おれの馬鹿。なんでこんな言い方しかできないんだ。言えよ!お前と俺ん家で、こたつでくっつきたいからバイト頑張ったんだぜって言え!
ニコニコ顔で俺のノートの隅に「ありがと」の4文字が書かれる。バレてんのかな。どこまで、バレてんのかな。
「おれ、ふゆ楽しみだ」
ボソッと横でお前が呟いた言葉で、部屋がまた暑くなった気がした。

11/16/2023, 1:18:11 PM

外廊下の階段を足早に登る音がして、うたた寝をしていたことに気付いた。ふたりで借りた築40年を越すアパートは、少しの振動も漏らさず建物中に伝える。寒くて動きが大きくなっているのだろう、ガンガンと響く足音にクスリ、と笑って、私は電気ケトルに水を入れた。
「ただいま」
建て付けの悪いドアの音にかき消されるような声で、私の頭より少し高いところから声が落ちてくる。離れていた時間を今すぐに埋めたくて、ドアが閉まり切るのも待たないで胸に飛び込んだ。
驚いた声をして少しよろめいたあとで、背中に腕が回って私を支える。抱きしめたあなたのダウンコートから、冬の夜が漏れ出してきて私の肌を撫でた。煙草と排気口、機械の油。それから冬の、冷たくて綺麗な匂い。
「どうしたんだよ。ほら、お土産」
パリパリ音を立ててビニール袋が持ち上がる。目立つ色合いの値引シールを引っ提げた、甘ったるいパンがいくつか入っていた。
「いや。ピエール・エルメのチョコが良かった」
笑いながら文句を垂れる私を、鏡写しみたいに笑ってあなたが少し叩いた。
ピエール・エルメのチョコ。エルキューイのスプーン、私の唇はルブタン。お水はペリエで、あなたの左腕にはフランク・ミュラー。
今はもうはなればなれになった、むかしの世界。どんな時も愛しいけど、あなたとふたりで半額のパンをかじる今が、1番愛しいのだ。
「.....そろそろかもしれない。この街を、出なきゃいけないの」
真面目な顔でそう話すあなた。分かってたよ。ダウンから漏れた空気の匂い、少し血の匂いがした。
「そっか。どこに行こう」
拍子抜けのような顔で私を見つめたあなたを笑うように、電気ケトルがガチャリ、と鳴った。